日本の教育を考える

日本の教育が少しでも良い方向に進化していってほしいなと願いつつ、感じたことを書いてみます。

池田中学の事件、校長の責任は重い。

ひどい叱責により、福井県の中学2年生の男子生徒が自ら命を絶ってしまいました。

町にひとつしかない中学校。

生徒数はたったの40人。

町にとって、子どもは宝でしょうに……。

亡くなった男子生徒の気持ちを思うと……つらかったでしょうに。残念でなりません。

 

この件を、いつものように「学校内の悲しい事故」として、なんとなく処理するのではなく、警察に介入してほしいと思います。

学校内の暴力、子どものいじめに警察が介入する時代なのです。教員のいじめにも警察が介入するのが平等というものでしょう。

担任と副担任の責任を追及するべきだと思います。

 

私は、素晴らしい教育者にお会いする機会があります。

びしっと叱ることも大事だとは思いますが、「叱るのとほめるのはセットだ」とある大御所の先生が言っておられました。

叱るだけというのは、その教員の単なるヒステリーであり、児童生徒をストレスのはけ口にしているとしかおもえません。

普通に考えたら、叱った後には「今回は間違ったけど、反省して次は頑張ろう」と思えるような励ましが必要じゃないでしょうか。

 

そして、校長や教頭、周りの教員はなぜ、このようなヒステリー教員の行動を黙ってみているだけだったんでしょうか。

特に、校長や教頭は、学校の中を毎日ぐるぐる見て回るのが仕事です。

怒鳴ってる教員の存在を、知らないはずがありません。

もしも気づいてなかったのなら、相当のぼんくら校長です。

気付いてたのに、教員に指導しなかったとしたら……校長としての資質がないということです(個人的には「いい人」かもしれないし、教員としては優秀だったかもしれませんが、校長には向いていなかった、ということもあるでしょう)。

 

今回の事件、問題は、校長の学校経営にもあります。

気になる子がいたり、困ったことがあったりした時に、学校体制でみんなで対策を考えるはず、なんですよ。そういうしくみが各学校につくられているはず、なんです。

スクールカウンセラーだっていたはずなのに……(常駐ではないかもしれませんけど、週何回かは来たはず)。

文科省は「チーム学校」っていってるのに、この学校は全然そんなふうになっていなかったということです。

みんなが見て見ぬふり、誰も管理職に相談できない、教員同士も相談できなくて自分でなんとかするしかない、そういう学校の雰囲気にしていることが、この校長の罪です。

 

そもそも学校というのは、児童生徒が毎日元気に登校してきて、楽しく過ごせるような場所にすることが大事で、それができていたら十分だと私は思うのですよ。

勉強はその次ですよ。

みんなが元気なのが一番。

教員が叱り倒して、いじめてどうするよ、って感じですよね。

 

校長の中には、力不足の方がいることは事実です。

残念ながら。

でも、そういう校長に任せた以上は、教育委員会が監督してくださいよ。しっかりと。

アクティブラーニングと逆行する政治の話。

学校は現在、アクティブ・ラーニング(主体的、対話的で深い学び)を積極的に進めています。

今の大人たちは話し合いがものすごく下手だと思うんですけど、だからこそ、子どものころから鍛えていこうとしているわけです。

国は、みんなが多様な意見を出し合って、話し合って問題を解決していく、そういう大人を育て、そういう世の中にしたいわけですよね?

学校はその目的に向かって進んでいますよ。

 

なのに……世間をにぎわす「都民ファーストの会」や「希望の党」を見ていると、言論統制ってなんだそりゃ、ですよ。

自分の意見を言っちゃいけなくて、全然、話し合いは行われていないみたいで、旧時代もいいところです。

独裁者が従順なしもべをつくりだしたいのなら、アクティブラーニングなんて必要ないわけですよ。

明らかに政治のやり方が、時代に逆行しています。

 

私はだいぶ長い間、「教育界、学校って世の中で一番時代から遅れているのかも」と思っていたんです。

きれいごとというか、建前で話す人が多かったからです。

でも、最近、特に今年に入ってから空気が変わってきたと肌で感じていました。

「子どもの目の輝きが~」とか言ってないで、物事を論理的に分析し、自分の意見をビシッという校長先生、教育委員会の担当者が増えているからです。

学校は確実に進化しています。

学校が周囲から一方的に叩かれてる時代は終わったんじゃないかと、私は密かに感じています。

 

というわけで、私が今、世の中で一番時代遅れだと感じるのは……政治家の世界ですよ。

 

全国学力調査と素晴らしい授業の話。

平成29年度の「全国学力・学習状況調査」の結果を受けまして、現在、上位県、上位政令市の取材を行っています。

 

昨日はある小学校で算数の授業を見せていただきました。

子どもたちの動き、反応がよかったです。31人が先生の指示でさっと動きます。

なんて書くと、ロボットのような画一的な動きを想像する方もいるかもしれませんが、そうじゃありません。キビキビと、前向きに、自分の意志で子どもが動いていくんですよ。教室にあるのはプラスのエネルギーです。子どもたちの知的好奇心に火をつけたといいますか、子どもたちをその気にさせているのです。

 

担任は女性の30代ぐらいの先生です。表情豊かで、まるで舞台を見ているかのような気分になりました。

授業ってあらかじめオチが決まっているわけです。先生は知っているのに知らんふりをして、子どもたちから様々な意見を引き出していくわけです。私は授業を見ていたら、「この先生のお芝居に乗せられてみたい」、そんな気分になりました。

子どもたちもきっとそう思ってるんじゃないかと思うんですよ。「この先生、なんかおもしろいから、先生の話に乗っかってやろうじゃん。だから、うま~く乗せてよね」みたいな……。

 

全国学力・学習状況調査に関しては、「競争をあおるべきではない」という批判的な意見もあります。

ただ、これをやることによって、現場の意識が確実に変わりました。以前は、教員たちは「授業で何を教えるか」を重視していたのです。つまり、教員たちは教える方法を熱心に研究し、こんな素晴らしい授業をしているのに、それが理解できない子がいるのは、その子自身の問題だからしょうがないでしょう、とされていたのです。

しかし、学力調査の結果にでてくるのは、子どもがどう理解したか、です。その結果、子どもがどう受け止めるかを重視して、授業を考えるようになったのです。これは非常に大きな発想の転換であり、近年の授業改善はこのような発想で行われています。

そして、子どもにとって「わかる授業」になると、子どもは前向きに授業に取り組みます。子どもの反応がよくなると、先生も楽しくなり、もっと授業を工夫します。そうやって好循環が生まれるわけです。つまり、成績のいい学校が、必ずしもつめこみ式でビシバシ勉強させているわけではなく、むしろ先生も子どもも、授業の中で生き生きしているケースもあるということです。 

 

問題なのは、学力調査の直前に、つめこみで、過去の問題をやらせる学校もあるってことなんですよね……。まぁ、これは文科省がやめろといったって、やる県・学校はあるでしょう。

しかしですね、国語にも算数にも、A問題とB問題があります。A問題はつめこめば何とか点がとれるとされていますが、B問題というのは、直前につめこみをしても点がとれないようになっていますのでね。B問題で高い点を取るには、日ごろの授業が大事、ということです。

 

そんなわけで、昨日見た授業は、子どもたちをその気にさせていて素晴らしかったです。学力調査で上位にくるのも納得です。つめこむのではなくて、こんなふうに全国で授業改善が進むといいなと思っています。

教員の働き方改革…「おもてなし」の矛盾

文科省では有識者を集め、教員の「働き方改革」の議論を進めているようです。

昨日は、社員の過労自殺という事件を起こした、電通の裁判もありました。

働き過ぎている人がこの国にはたくさんいて、教員だけの問題ではないということです。

国全体がこのまま「働き過ぎはやめましょう」という方向に進んでいくのでしょうか?

 

進めばいいなとは思います。

 

でも、2020年は東京オリンピックです。

国民がみんなで、海外から来た人を「おもてなし」するんですよね?

これ、どうするんでしょう。

「おもてなし」をするには準備が必要です。

海外の国々のことを学んだり、設備を整えたり。

つまり、「おもてなし」という仕事を、新たに増やすわけです。

 

それが収益につながる人たち、企業はがんばることでしょう。

そうすると、「働き方改革」と矛盾してると感じるのは、私だけでしょうか?

私が「おもてなし」を問題視する理由は、プラスアルファのサービスで他国と差別化を図ろうとする発想が根底にあるからです。

「細かいところまで、もっと、もっとサービスして、ほめられたい」と考える人が増えるのは自然な流れではないでしょうか。

「働き方改革」の発想からいきますと、国には「過度なおもてなしは禁止。勤務時間の中だけでおもてなしをしましょう。それ以外の時間にはおもてなしをしなくてよい」とちゃんと言っていただかないといけないと思います。

 

そして、個人レベルではどうかというと、「働き方改革」をして、自由な時間をつくりだして、ボランティアで「おもてなし」をしろということですよね。

やりがいはありそうですが、みんな忙しくなりそうです。

一見いいことのように思えますが、結局、生活は今とたいして変わらない気がしますけど……。

 

東京オリンピックを成功させたい気持ちはもちろんありますが、このままですと「おもてなし」の発想が自分たちの首をしめるのではないでしょうか。

ビジネスライクの適度な対応こそ、「働き方改革」にふさわしいのではないかと、私は思うわけです。

誰か偉い人、そう言ってください。

 

頑張りすぎてしまう人たちがどうして生まれるのかというと、子どものころから、そうやって生きてきているからです。先生たちも基本的にそういう人たちです。頑張ったからこそ、今のポジションを獲得できたと知っています。

だからこそ、学校ではこれまでずっと「頑張ることは大切である」と教えてきました。

自分でバランスをとり、ブレーキを掛けられる人はいいのですが、中には頑張りすぎてしまう人たちもいます。

頑張りすぎてしまう人たちに対しては、「頑張ることは大切だけど、すべてにおいて限界まで頑張らず、ほどほどのところでやめることがあってもいい」と学校で教えたほうがいいのではないかと思っております。

先生が尊敬されない問題について。

子どものころ、「先生の言うことを聞きなさい」と言われたものです。

怒られるのは子どもが悪いから、と決まっていたのです。

でも、最近は「うちの子は悪くない」と考える親御さんもいるようで、先生の言うことを受け入れてくれるとは限らなくなりました。

つまり、「先生」というだけで、尊敬される時代ではないということです。

そのことを憂える方も多いと思いますが、むしろ私は、昔の「先生の言うことはなんでも正しい」という発想のほうが不気味な気がします。

先生の中にもいろんな方がいるからです。

尊敬に値する方もいれば、そうでない方もいるのは当たり前だと、個人的には思っています。

 

そうはいっても、学校現場では、先生が子どもに尊敬されたほうがいいんだろうと思います。

尊敬している人の話は、大人も子どもも聞くものですし、その結果、指導も、学級経営もうまくいくからです。

 

いまどきの子どもの尊敬を得るにはどうしたらいいのか。

 

まず、子どもは保護者の影響を受けやすいはずです。

保護者が尊敬するのは、どんな人でしょうか。

地位や名誉も大事ですが、それよりもお金と情報を持たくさんもっている人ではないかと思うのです。特に、欲しいものを買うために、お金をたくさん持っていることが重要な世の中です。保護者のこの価値観が変わらないと、尊敬されるのはなかなか難しいかもしれません。

 

でも、希望はあります。

子どもが尊敬しているのは、ユーチューバ―だそうです。

ユーチューバ―たちはまるで遊んでいるかのように、楽しそうに、お金を稼いでいます。

そこに、ヒントがあると思うのです。

先生たちが、もっと楽しそうに授業をしたら……たとえば、「〇〇先生の理科の授業はものすごくおもしろい」という話になり、子どもの尊敬を得られる可能性があるのではないでしょうか。

そうです。

「なんでもできるすごい人」をめざさないで、オタク的に一部分だけの尊敬を得ることならば、できる気がします。

 

それには、ものすごく楽しい授業をしないといけないわけで、今よりもマニアックに教材研究をする時間が必要でしょう。

そのためにも、教員の働き方改革が必要だと思うのです。

文科省のガイドラインと学校現場がかけ離れている件について。

現在、スクールカウンセラー(SC)とスクールソーシャルワーカー(SSW)について調査中です。

それでわかったのは、地域によって驚くほど配置状況が違うということです。

この件に関しては、文科省が今年1月にガイドラインをつくって公表しているのですが、全然その通りにはなっていないのです。

複数の地域の学校関係者を取材しましたが、みなさん、「SCやSSWをもっと増やしたいが、資金不足と、一定レベルの人材確保の難しさもあって増やせない」とおっしゃいます。

学校現場の現実はそんな状態です。

 

これは、SC,SSWに関することだけの話ではありません。

ある課題に対して、専門家を集めて話し合いを行い、ガイドラインをつくるのは、文科省の仕事です。

ガイドラインには、学校はこんな体制をつくりなさい、こんなときはこうしなさい、こういう係の人を学校につくりなさい……などと書いてあります。

それを読んだ多くの人(学校関係者でない人)は、学校はそのガイドラインどおりにやってるのかと、勘違いしてしまいます。私も以前はそう思っていました。

でも、実際はそうではないんですね。

なぜかといいますと、そもそもガイドライン自体が、現実離れしているからです。

 

先日お会いしたある校長先生が教えてくれました。その方は文科省の会議にも参加されているような方です。

ガイドラインというのは、あくまでも理想の形なのだそうです。

そんなお金がどこにありますか、そんな条件で働いてくれる人がどこにいますかなど、現実的な話を一切抜きにして、ガイドラインはつくられるんだそうですよ。

その点を指摘しても、「この会議はそれでいいんだ」という答えが返ってくるそうで。

 

文科省の仕事はガイドラインで理想の形を示すことであり、それに近づくように努力するかどうかは、区や市の教育委員会の判断次第なのです。

別に従わないからといって、罰則があるわけではありません。

その結果どうなるかというと……お金のない地域は、そう簡単に人を雇えませんからね……。現場は全然、ガイドライン通りにはなっていない、ということです。

そして、せっかくガイドラインをつくっても、誰も見なくなるわけですね……。

学校ではいろんな出来事が日々起きて、忙しいですし。

理想につき合ってる暇はないからです。

 

それで、何か不祥事が起きると、学校はなぜガイドラインの通りにやるべきことをやらなかったんだと、新聞やテレビ、ネットから責められるわけです。

 

理想の形を示すことが悪いとはいいませんが……、そうなったらいいですよね~的な気分にはなれますからね。

しかし、「お金がないことや手間の大変さは無視して、とにかく子どものために一番効果的なことをしてくださいね」といわれても、現実にはできないわけで、いじわるな言い方をしますと、こういうの、机上の空論というのではないでしょうか。

これははっきりいって、文科省の責任逃れのためにやってることのように私には見えます。「文科省は、こうしてくださいって、ちゃんといいましたよ。その通りやらなかったのは市教委が悪いんです」というアリバイ工作の一種なのでは……。

もし「アリバイづくりのためにやってるわけじゃない!」のでしたら、今後は、もう少し現実的な解決策を考えていただきたいなと願っている次第です。

そうしないと、ガイドラインと現場の距離が全然縮まらないですからね。

それと、教員が働き過ぎてしまう根本的な原因の一つは、あくまでも理想を追い求める国の姿勢にあるんじゃないかと私は思っているのです。

中学校の部活動問題は、対策を各自治体が考えるべき

中学校の部活動問題について記事を書くため、先月、取材しておりました。

この問題に関しては、私はずっともやもやしていました。

部活動に対しては、いろいろな意見があり、それぞれに説得力があり、いったい誰の声を聞いて対策を考えるべきなのか、つまり、この問題のゴールがよくわからなかったからです。

 

今回、「総合教育技術」9月号の取材で、部活動問題を主導しておられる学習院大学の長沼豊教授に話を聞きました。先進事例として、多治見市教委と、杉並区教委の担当者にも話を聞きました。

 

取材する中でわかったのは、先生の中にもいろんな人がいるということです。

①部活動が大好きで生きがいになっている先生

②大好きとまではいかないけれど、部活動の顧問として指導ができる先生

③部活動の顧問はできても、指導ができない先生

④部活動の顧問をしたくない先生

 

私が思うに、なぜこの問題がここまで長引いているかというと、一つの解決策でなんとかしようと、みんなが思っていたからです。

昭和時代のやり方ですと、多数決で人数の多いグループの意見が通り、少数派はあきらめるしかありませんでした。

しかし、時代が変わりました。④の先生たちは少数かもしれませんが、この人たちも納得のいく解決方法が求められているのです。

つまりですね、一つの解決策を決めて「全員がそれに従いなさい」ではなく、①から④それぞれの人たちが納得できる、複数の対策を同時進行することが必要だということです。

しかも、文科省が決めて、上から指示を出すのではダメなのです。

都会と田舎では対策が違うはずですし、県民性とか、スポーツへの考え方、保護者の考え方も地域によって微妙に違うからです。

その地域に合ったやり方を、各自治体が考えて実行することが求められています。

先進事例として「総合教育技術」9月号では多治見市と杉並区を紹介しています。どちらも素晴らしい、思い切ったチャレンジだと思います。

 

結局、何が問題かというと、文科省が絶対的存在で、何事も文科省が決めるのを待っている、という教育界の体質なのです。

長い間、文科省の言いつけに従ってきすぎたために、いつのまにか、自分たちで考えることをやめてしまっていたのではないでしょうか。

学習指導に関しては、学習指導要領という一つの基準をみんなが守ることは必要だと思います。

しかし、部活動に関しては、世の中が複雑になりすぎて、一つのやり方ではみんなを納得させられなくなっていたのです。

今、求められているのは、発想の転換です。

文科省が何とかしてくれるのを待つのではなく、それぞれの自治体が頭をひねって対策を考えることが求められています。