日本の教育を考える

日本の教育が少しでも良い方向に進化していってほしいなと願いつつ、感じたことを書いてみます。

先生の親身な対応とワーク・ライフバランス

先日、元校長先生にお話を聞く機会がありました。

その先生は若いころ4年生を担任したことがあり、そのクラスが30数年ぶりに同窓会を開いたんだそうです。

先生がトイレに立つと、一人の男性が近づいてきたそうです。

その男性は子ども時代、家庭環境が複雑で、悪さばかりしていました。

先生が担任をしたとき、その子どもを自宅に連れてきて話を聞いたり、勉強を教えたり、いろいろ面倒を見たんだそうです。

その男性が先生に「ありがとうございました」と涙を流しながらお礼を言い、思わず抱き合って泣いたと言っていました。

先生が担任したのはたった1年間でしたが、その子は先生との出会いで「もう悪いことはしない」と決めて、その後もずっと、悪さをすることはありませんでした……。

たった一人の先生がこの子の人生を変えるきっかけになったということです。教育の現場では、こういうことが起こるんですよね。

 

この話を聞いて、私はものすごく感動すると同時に、少々考えさせられてしまったのです。

学校の先生にも今流行のワーク・ライフバランスを考えて行動してほしい…そう思う一方で、気の毒な環境にあって荒れている子どもがいたら、親身な対応で一人でも多く救ってほしい、という思いもあるからです。

「勤務時間は終わりました。はい、終了」では済まないものが学校にはあります。

 

この話は30数年前の話で、今とは先生を取り巻く環境が違います。

今の先生は、昔の先生よりもやることが多すぎます。

授業の準備でも保護者対応でも。

〇〇教育というのがたくさんあって、大変なんですよ。

世の中の企業は「残業を減らしましょう」という流れで進んでいるのに、先生に対しては社会も保護者も「もっともっと」を求めているんですよね。

でも、先生にこれ以上多くを求めるのは酷というもの。

となると、先生に代わって、NPO法人や地域の人が、子どもに親身な対応をするというのが現実的なのかもしれません。

「好き」を仕事にすることと部活動の顧問問題

昨今のように教師受難の時代でも、「子どものころから教師になるのが夢でした」、「子どものころにお世話になった〇〇先生みたいになりたくて、教師になりました」という方がけっこういるのです。

 

基本的に、教師というのは「なりたい人がなる」仕事です。

 

それにはメリットとデメリットがあります。

メリットは、「子どものために頑張ること」を楽しめる、ということです。元々、子どもが好き、教えるのが好き、という人たちは、子どものために頑張ることが苦ではないのです。

デメリットは、最悪の労働条件になってしまうことです。「好き」な人たちはいくらでも頑張ってしまうからです。

部活動の指導が好きな人は、土日も返上して頑張ります。それが楽しいからです。保護者にも子どもにも感謝されますしね。

 

でも、「好き」な人たちを基準にした職場は、普通のテンションで仕事として取り組むスタンスの人にとっては「やってられない」状態になるのではないでしょうか。

 

これは、出版業界にも言えることです。文字をいじくり回すが好きな、活字中毒のような人たちが夜中まで原稿を書いたり、修正したりを繰り返しているのです。そんな人が集まっています。そこに、労働条件を気にするような仕事と割り切ってこなしたいタイプの人が入ってきた場合、さっさと転職していきます。割に合わないし、やってられないからです。

もちろん、頑張り過ぎて体を壊す人もいますけどね。

 

話を教師に戻しますと、

いわゆる普通のビジネスマンの方たちよりも、教師は少しだけ職業選択の動機が強いように思います。

ビジネスマンの方たちも、「あの仕事をしたい」という夢を持って入社するとは思いますが、結局のところ、それができるのはごく一部であり、多くの方は与えられた環境で与えられた仕事をこなすのではないでしょうか。だからこそ、仕事として冷静に取り組めるのだと思います。

それに対し、教師は「好き」でやっている仕事だけに、頑張り過ぎてしまう人が多い、ということです。

 

さて、昨今の部活動の顧問の問題ですが。

部活動の顧問も、「好きでやっている人」と「やってられない」人がいます。

両方の方がいるから、問題が複雑です。

「好きでやってる人」に「やるな」とは言いにくいでしょう。

問題を解決するには、誰かとの衝突が避けられず、それを避けるために、この問題が長い間放置されてきたようにもみえます。

 

そして、頑張る人がいると、頑張りたくない人は、保護者からも子どもからも「非難されているような気分」になります。おもしろくないですよね。社会常識に照らして、あたりまえの権利を主張しているだけなのに。

 

これまで教育現場は「好きでやってる人」を基準としてきました。

でも、時代の流れというか、最近は「教育現場にビジネス界的な発想を取り入れるべきだ」との考え方があり、少しずつ入ってきています。

教師の中からも「やってられない」という声がたくさん上がってきているのだとしたら、「好きでやってる人」に合わせた基準を、そろそろ変える必要があるということなのかもしれません。

教員の多忙になる原因と対策

教員が多忙であると、問題になっています。

その原因を一言でいうと、特に小学校の場合、教員にいろんなことをやらせすぎるからです。

 

小学校では、担任が国語、算数、理科、社会に加え、音楽、図工、体育(音楽、図工、体育は専科の教員がいる場合もあります)、道徳、総合的な学習などなど、とにかく基本的に自分のクラスの授業を一人の教員が全部担当します。

この他に、テストの〇つけ、連絡帳のチェック、保護者の対応、校務分掌の仕事もあります。

 

まじめに授業をやろうとしたら、下準備が必要です。

例えば、国語はどういう展開で授業を進めようか。この部分を掘り下げて、そのためには何の資料を用意しようか。きっと子供はこんな反応をするだろうから、そんなときはどうしようとか。こんなワークシートをつくっておこうとか。

まじめ過ぎる人は、子どもが帰った後、そんなことを翌日の授業の数だけ、毎日やるわけです。

 

賢い人は手抜きをする科目もあります。国語には力を入れるけど、社会は指導書の通りに進めて終わりとか。それも当然です。全部の教科で毎日、完璧で、独創的な授業をするにするのは、物理的に無理だからです。

 

この解決策としては、小学校でも教科担任制にしたほうが授業の質が向上するのではないかと、私は思っています。

 

しかし、問題は授業の準備が大変、ということだけではありません。

次々に「新しいことをやりなさい」と、文科省から言われることです。

道徳、英語、アクティブラーニング、プログラミング教育……。

既存の授業の準備だけでも毎日忙しいというのに、もっともっとと仕事が増えていくのです。

学校にはすでに、人権教育、環境教育など、〇〇教育と呼ばれるものがあふれかえっている、というのに。

 

もちろん、時代に合わせて教える内容を変えていく必要があることは理解できます。

変化は必要です。

 

しかし、問題は増えるいっぽうであることです。

「これはやらなくてよい」と誰もいわないのです。

そのため、今までのものにどんどん新しいものが乗っかっていくわけですね。

 

学校現場に必要なのは、スクラップ&ビルドの考え方だと思います。

教育委員会が「やらなくていい」と言ってくれないため、賢明な校長先生たちは「これは今年はやらなくていい」、「この学年はこれはやらなくていい」、というような英断をされています。

それはとても勇気のいることです。前年度にしたことを継承するのが学校の基本的なシステムだからです。

勇気のない校長先生は…上から言われた通りに仕事を教員に振り分けるわけです。そうするとどうなるか……そもそもじっくり考える時間がないわけですから、適当にこなすことになります。

とりあえず、「うちの学校はやりましたよ」という程度の内容になると。

文科省有識者が考えた、崇高な、素晴らしい効果が期待される取組みが、こうやって形骸化していくのです。

いじめ自殺事件と担任

青森で中学生のいじめ自殺事件が起きました。

残念としかいいようがありません。

 

このような事件が起きた時、私が気になるのは「担任がどんな人だったのか」ということです。

新聞の報道などでは、担任がどんな指導をしたかが取り上げられますが、そうではなく、担任のもともとの性質です。たいていはそこまで報道されませんけどね。

 

なぜかといいますと、学校の先生の中にも一定数、発達障害的な性質をお持ちの方がいるからです。

実は私自身も、小学2年生の担任がそういう傾向の強い方でした。

行動が変で、話すことも変。笑顔がまったくなし。

この先生、なんでこういうことをするんだろう?

なんで変なことを言うんだろう。

なんでみんなの気持ちがわからないんだろう。

とにかく、不思議でたまりませんでした。

当然、子どもたちは反抗的になり…今思い出しても、悲惨な一年間でした。

当時は、発達障害についてまったく知りませんでしたから、その先生が大嫌いで、「わざと意地悪しているんだろう」と思っていたんですが、最近になって、数々の奇行の理由がわかったのです。

 

もちろん、私が取材にうかがうような先生方には、そのような傾向の方はいません。先生としてきちんと実績を残されている方にしか取材に行かないですから。

 

「先生というのは頭が良くて、子どもの気持ちがわかって当たり前」と思っている方も多いと思います。新聞やテレビではそういう前提で話がされています。だから、先生たちが叩かれるんですね。

でも、頭は良くても、子どもの気持ちがわからない先生も中にはいます。

そのような方々の職業選択の自由を狭めるつもりはないのですが、クラスが荒れてしまえば子どもがかわいそうです。ご自分のそのような性質に気づき、学級経営において周囲に支援をあおぐとか、担任をはずれるとか、少し考えていただけるといいような気がします。教育委員会にも、そのような先生を生かす方法を考えてほしいです。

 

おそらく研究者などが適職だと思われます。

私は大学教授にお会いする機会がけっこうありますが、やはり、いらっしゃいます。バランス感覚はいまいちでも、一つの事に集中するという性質を研究に生かしておられます。大学生になれば、小中学生ほど、先生に依存しませんしね。

叱ることの大切さを語ってくれた元校長先生

すでに退職された中学校の校長先生の話です。

 

学校に、生徒が悪いことをしたときビシッと叱る先生と、決して怒らない甘い先生がいるとします。

どちらが生徒に人気があるかというと、当然、甘い先生です。何でも許してくれるから。

でも、それじゃ子どもは成長しないわけですよね。悪い子はずっと悪いまま。長い目で見た時、どっちが子どものためになるんでしょうかね…。

 

この校長先生は教員時代、甘いタイプの先生をしたこともあるそうです。なぜかというと、その学校には厳しいタイプの先生がちゃんといたから。そうしたら、生徒からすごく人気が出て、「甘やかすだけの教員を一生やっていられたら、どんなに楽だろうと思った」と言っていました。

 

子どもを叱ると最近は「うちの子をしかるな」と保護者から苦情が来ます。

でも、その校長先生は「褒めよ叱るな」は間違ってるというのです。

 

子どもが悪いことをしたとき、叱られて悩んで、自分の行動を変えて、みんなから承認にされたときに自分は大人になったという自己認識が向上する、これが教育であるとの持論をお持ちです。

それに、叱るということは、その子どもに責任の取り方を教えることにもなります。もしもいじめをした子供が、叱られないで放任されたら、罪は浄化されず、いじめた記憶はずっと残り続けるわけです。叱られて、責任を取ることで罪悪感を消化することができるのです。

 

なんでもかんでも子どもの言うことを受容すればいいのではなく、中学生がタバコを吸ったらそれはダメだと厳しい先生が叱らなくてはいけない。そして子どもが自分の行動を変えた時、今度は優しい先生がほめてあげる。

学校にはいろんなタイプの先生がいてよくて、大事なのは役割分担なのだと言っておられました。

でも、この先生はいつも生徒を叱ってばかりかというと、そんなことはなくて9割はほめて、1割は叱る、そんな感じだったそうです。

記事にしなかった話② ある愛情あふれる校長先生の話2

前回の続きです。

校長先生は無線機をつけなかったし、警察OBにもお引き取り願い、校内をうろうろしている生徒に話を聴いたそうです。

わかったことは、その生徒たちがなぜうろうろしているかというと、それは勉強が嫌だから。

勉強が小学校のときから苦手で、勉強が怖くて逃げ回っていたわけです。

 

この学校は問題を抱えているわけですから、当然、生徒指導とか、人権とか、いろんな研究指定を受けていました。

先生たちはいろんなことをさせられるのに全然効果がなく、疲れ切っています。

だから、いろんな指定を全部断り、授業改革にしぼったそうです。

 

まずは先生の意識を変えるところから始めていったのです。

上から目線をやめて。

子どもの心の動きを専門家から学んで。

授業のやり方を工夫して。

特別支援教育の視点を加えて。

授業中に生徒をほめて。

自主学習を始めて。

このほかに、

放課後や夏休みには地域の人に補習に参加してもらって、生徒を励ましてもらったり。

全部説明するとものすごく長くなってしまうので、この辺にしておきますが、本当にいろいろなことをなさった結果、活気のある地域の人気校に変わりました。

 

この中学校が学校改善に成功した根本には「この学校の生徒には何が必要か」を校長先生が把握していたことがあると思います。

A中学校で成功したやり方が、B中学校で通用するとは限らないですからね。

この学校の生徒に必要なのは…愛情でした。

今までの人生で親に愛された経験のない子どもたちがたくさんいるのですから。

命令口調で言っても反発されて、学校が混乱するだけです。

教員は父親のように母親のように愛情をもって接していかないと。

だからと言って、優しければいいってもんでもないんですね。

子どもの心に寄り添ってとことん話を聴いてあげる先生って、どこの学校にもいらっしゃいます。決して怒らないで、常に生徒の味方になってくれますから、ワルの生徒からは人気が出ます。でも、それだけじゃ足りないと思います。何も変わらないから。

この校長先生はそれだけじゃないんですね。

愛情を持って話をきいてあげて、さらに未来を見せてあげるような声がけをしたんですよね。ゆっくりでいいから、変わっていこうねと。

人間はたった一度のきっかけで変われるものではなく、何度も何度も間違えて、ゆっくりゆっくり変わっていくものだとご存じだからです。

「子どもはレッテルを貼るものではなく、可能性を信じて応援するもの」とおっしゃっていたのが印象的でした。

記事にしなかった話② ある愛情あふれる校長先生の話1

ある地方都市の中学校の校長先生の話をしようと思います。

 

その中学校は繁華街に近くて、昔から外国籍の子どもが多い地域です。それだけではなく、決して記事は書けないことがありました。何かと言いますと、養育を放棄された子どもたちを保護する施設など、いろんな困難を抱えた子どもたちが集まる施設が学区にいくつもあり、みんなこの学校に通ってきていたのです。

校長先生が来たとき、今から3年前は本当にひどい状態だったそうです。生徒数は600名程度ですが、常時20数名の生徒が校内を徘徊していて、ドアを蹴飛ばしたり、窓から出入りしたり、やりたい放題。卒業式や入学式には笛がピーピーなったり、ぶらぶらしている生徒がいたり。校歌なんて誰も歌わないし。

そのため、警察OBが常時巡回していました。教員は無線機のイヤホンをつけていたんだそうです。どこかでケンカが起きたと連絡が来たらすぐに出動し、巻き込まれている教員を助けないといけないからです。

「卒業生が犯罪者になってしまう」と噂される、その地域では昔から悪い意味で有名な学校でした。

当時、この学区の小学校に通っていた子どもの進学率は50%程度で、優秀な子どもは私立へ行き、残りの子どもたちにもできれば通いたくないと思われるような学校でした。出身校をたずねられて、答えたくないレベル。市内の先生たちの間でも、この学校では働きたくないと思われていました。

すごい話ですよね。

このように多くの人が見すてていたこの学校が、どんどん変わっていったんですよ。

感動するほどに。