教員の働き方改革…「おもてなし」の矛盾
文科省では有識者を集め、教員の「働き方改革」の議論を進めているようです。
昨日は、社員の過労自殺という事件を起こした、電通の裁判もありました。
働き過ぎている人がこの国にはたくさんいて、教員だけの問題ではないということです。
国全体がこのまま「働き過ぎはやめましょう」という方向に進んでいくのでしょうか?
進めばいいなとは思います。
でも、2020年は東京オリンピックです。
国民がみんなで、海外から来た人を「おもてなし」するんですよね?
これ、どうするんでしょう。
「おもてなし」をするには準備が必要です。
海外の国々のことを学んだり、設備を整えたり。
つまり、「おもてなし」という仕事を、新たに増やすわけです。
それが収益につながる人たち、企業はがんばることでしょう。
そうすると、「働き方改革」と矛盾してると感じるのは、私だけでしょうか?
私が「おもてなし」を問題視する理由は、プラスアルファのサービスで他国と差別化を図ろうとする発想が根底にあるからです。
「細かいところまで、もっと、もっとサービスして、ほめられたい」と考える人が増えるのは自然な流れではないでしょうか。
「働き方改革」の発想からいきますと、国には「過度なおもてなしは禁止。勤務時間の中だけでおもてなしをしましょう。それ以外の時間にはおもてなしをしなくてよい」とちゃんと言っていただかないといけないと思います。
そして、個人レベルではどうかというと、「働き方改革」をして、自由な時間をつくりだして、ボランティアで「おもてなし」をしろということですよね。
やりがいはありそうですが、みんな忙しくなりそうです。
一見いいことのように思えますが、結局、生活は今とたいして変わらない気がしますけど……。
東京オリンピックを成功させたい気持ちはもちろんありますが、このままですと「おもてなし」の発想が自分たちの首をしめるのではないでしょうか。
ビジネスライクの適度な対応こそ、「働き方改革」にふさわしいのではないかと、私は思うわけです。
誰か偉い人、そう言ってください。
頑張りすぎてしまう人たちがどうして生まれるのかというと、子どものころから、そうやって生きてきているからです。先生たちも基本的にそういう人たちです。頑張ったからこそ、今のポジションを獲得できたと知っています。
だからこそ、学校ではこれまでずっと「頑張ることは大切である」と教えてきました。
自分でバランスをとり、ブレーキを掛けられる人はいいのですが、中には頑張りすぎてしまう人たちもいます。
頑張りすぎてしまう人たちに対しては、「頑張ることは大切だけど、すべてにおいて限界まで頑張らず、ほどほどのところでやめることがあってもいい」と学校で教えたほうがいいのではないかと思っております。
先生が尊敬されない問題について。
子どものころ、「先生の言うことを聞きなさい」と言われたものです。
怒られるのは子どもが悪いから、と決まっていたのです。
でも、最近は「うちの子は悪くない」と考える親御さんもいるようで、先生の言うことを受け入れてくれるとは限らなくなりました。
つまり、「先生」というだけで、尊敬される時代ではないということです。
そのことを憂える方も多いと思いますが、むしろ私は、昔の「先生の言うことはなんでも正しい」という発想のほうが不気味な気がします。
先生の中にもいろんな方がいるからです。
尊敬に値する方もいれば、そうでない方もいるのは当たり前だと、個人的には思っています。
そうはいっても、学校現場では、先生が子どもに尊敬されたほうがいいんだろうと思います。
尊敬している人の話は、大人も子どもも聞くものですし、その結果、指導も、学級経営もうまくいくからです。
いまどきの子どもの尊敬を得るにはどうしたらいいのか。
まず、子どもは保護者の影響を受けやすいはずです。
保護者が尊敬するのは、どんな人でしょうか。
地位や名誉も大事ですが、それよりもお金と情報を持たくさんもっている人ではないかと思うのです。特に、欲しいものを買うために、お金をたくさん持っていることが重要な世の中です。保護者のこの価値観が変わらないと、尊敬されるのはなかなか難しいかもしれません。
でも、希望はあります。
子どもが尊敬しているのは、ユーチューバ―だそうです。
ユーチューバ―たちはまるで遊んでいるかのように、楽しそうに、お金を稼いでいます。
そこに、ヒントがあると思うのです。
先生たちが、もっと楽しそうに授業をしたら……たとえば、「〇〇先生の理科の授業はものすごくおもしろい」という話になり、子どもの尊敬を得られる可能性があるのではないでしょうか。
そうです。
「なんでもできるすごい人」をめざさないで、オタク的に一部分だけの尊敬を得ることならば、できる気がします。
それには、ものすごく楽しい授業をしないといけないわけで、今よりもマニアックに教材研究をする時間が必要でしょう。
そのためにも、教員の働き方改革が必要だと思うのです。
文科省のガイドラインと学校現場がかけ離れている件について。
現在、スクールカウンセラー(SC)とスクールソーシャルワーカー(SSW)について調査中です。
それでわかったのは、地域によって驚くほど配置状況が違うということです。
この件に関しては、文科省が今年1月にガイドラインをつくって公表しているのですが、全然その通りにはなっていないのです。
複数の地域の学校関係者を取材しましたが、みなさん、「SCやSSWをもっと増やしたいが、資金不足と、一定レベルの人材確保の難しさもあって増やせない」とおっしゃいます。
学校現場の現実はそんな状態です。
これは、SC,SSWに関することだけの話ではありません。
ある課題に対して、専門家を集めて話し合いを行い、ガイドラインをつくるのは、文科省の仕事です。
ガイドラインには、学校はこんな体制をつくりなさい、こんなときはこうしなさい、こういう係の人を学校につくりなさい……などと書いてあります。
それを読んだ多くの人(学校関係者でない人)は、学校はそのガイドラインどおりにやってるのかと、勘違いしてしまいます。私も以前はそう思っていました。
でも、実際はそうではないんですね。
なぜかといいますと、そもそもガイドライン自体が、現実離れしているからです。
先日お会いしたある校長先生が教えてくれました。その方は文科省の会議にも参加されているような方です。
ガイドラインというのは、あくまでも理想の形なのだそうです。
そんなお金がどこにありますか、そんな条件で働いてくれる人がどこにいますかなど、現実的な話を一切抜きにして、ガイドラインはつくられるんだそうですよ。
その点を指摘しても、「この会議はそれでいいんだ」という答えが返ってくるそうで。
文科省の仕事はガイドラインで理想の形を示すことであり、それに近づくように努力するかどうかは、区や市の教育委員会の判断次第なのです。
別に従わないからといって、罰則があるわけではありません。
その結果どうなるかというと……お金のない地域は、そう簡単に人を雇えませんからね……。現場は全然、ガイドライン通りにはなっていない、ということです。
そして、せっかくガイドラインをつくっても、誰も見なくなるわけですね……。
学校ではいろんな出来事が日々起きて、忙しいですし。
理想につき合ってる暇はないからです。
それで、何か不祥事が起きると、学校はなぜガイドラインの通りにやるべきことをやらなかったんだと、新聞やテレビ、ネットから責められるわけです。
理想の形を示すことが悪いとはいいませんが……、そうなったらいいですよね~的な気分にはなれますからね。
しかし、「お金がないことや手間の大変さは無視して、とにかく子どものために一番効果的なことをしてくださいね」といわれても、現実にはできないわけで、いじわるな言い方をしますと、こういうの、机上の空論というのではないでしょうか。
これははっきりいって、文科省の責任逃れのためにやってることのように私には見えます。「文科省は、こうしてくださいって、ちゃんといいましたよ。その通りやらなかったのは市教委が悪いんです」というアリバイ工作の一種なのでは……。
もし「アリバイづくりのためにやってるわけじゃない!」のでしたら、今後は、もう少し現実的な解決策を考えていただきたいなと願っている次第です。
そうしないと、ガイドラインと現場の距離が全然縮まらないですからね。
それと、教員が働き過ぎてしまう根本的な原因の一つは、あくまでも理想を追い求める国の姿勢にあるんじゃないかと私は思っているのです。
中学校の部活動問題は、対策を各自治体が考えるべき
中学校の部活動問題について記事を書くため、先月、取材しておりました。
この問題に関しては、私はずっともやもやしていました。
部活動に対しては、いろいろな意見があり、それぞれに説得力があり、いったい誰の声を聞いて対策を考えるべきなのか、つまり、この問題のゴールがよくわからなかったからです。
今回、「総合教育技術」9月号の取材で、部活動問題を主導しておられる学習院大学の長沼豊教授に話を聞きました。先進事例として、多治見市教委と、杉並区教委の担当者にも話を聞きました。
取材する中でわかったのは、先生の中にもいろんな人がいるということです。
①部活動が大好きで生きがいになっている先生
②大好きとまではいかないけれど、部活動の顧問として指導ができる先生
③部活動の顧問はできても、指導ができない先生
④部活動の顧問をしたくない先生
私が思うに、なぜこの問題がここまで長引いているかというと、一つの解決策でなんとかしようと、みんなが思っていたからです。
昭和時代のやり方ですと、多数決で人数の多いグループの意見が通り、少数派はあきらめるしかありませんでした。
しかし、時代が変わりました。④の先生たちは少数かもしれませんが、この人たちも納得のいく解決方法が求められているのです。
つまりですね、一つの解決策を決めて「全員がそれに従いなさい」ではなく、①から④それぞれの人たちが納得できる、複数の対策を同時進行することが必要だということです。
しかも、文科省が決めて、上から指示を出すのではダメなのです。
都会と田舎では対策が違うはずですし、県民性とか、スポーツへの考え方、保護者の考え方も地域によって微妙に違うからです。
その地域に合ったやり方を、各自治体が考えて実行することが求められています。
先進事例として「総合教育技術」9月号では多治見市と杉並区を紹介しています。どちらも素晴らしい、思い切ったチャレンジだと思います。
結局、何が問題かというと、文科省が絶対的存在で、何事も文科省が決めるのを待っている、という教育界の体質なのです。
長い間、文科省の言いつけに従ってきすぎたために、いつのまにか、自分たちで考えることをやめてしまっていたのではないでしょうか。
学習指導に関しては、学習指導要領という一つの基準をみんなが守ることは必要だと思います。
しかし、部活動に関しては、世の中が複雑になりすぎて、一つのやり方ではみんなを納得させられなくなっていたのです。
今、求められているのは、発想の転換です。
文科省が何とかしてくれるのを待つのではなく、それぞれの自治体が頭をひねって対策を考えることが求められています。
全国で学校閉庁日、校長先生は夏休み
全国的に、お盆休みの現在、多くの小中学校が「お休み」となっているようです。
お盆休みに合わせて学校閉庁日を設定する自治体が増えているからです。
以前は、お盆であろうと関係なく、学校には常に誰か先生がいて不測の事態に備えていました。先生が部活動の指導をしていることもありました。
それが当たり前になっていたのです。
ここ数年、夏休み中の何日間かを学校閉庁日にする自治体がぽつぽつと増えてきていたのですが、教員の長時間労働をなんとかしようという動きを受けて、今年は本当に多くの学校が夏休み中に学校閉庁日を作っています(その間に何かあったら、教育委員会が対応するそうです)。
それに伴って、普段、なかなか休めない校長先生の中には、8月11日から20日まで、夏休みをとっている方も多いようです。
なぜそう思うのかというと、先週、京都の小学校と東京の中学校に取材を申し込んだところ、2校とも、校長先生が夏休みをとるため「21日以降でないと無理」といわれてししまったからです……。
校長先生が10日間も、堂々と、休めるようになったのは、大きな前進です。
これも教員の長時間労働の実態が、世間の人に知れ渡った効果でしょう。
教育委員会もちゃんと考えてくれています。
私個人としては、取材が遅くなると、取材からしめきりまでの期間が短くなってしまうので少々困るのですが……喜ぶことにします。
カリマネと民主主義の関係
カリキュラムマネジメントとは新学習指導要領の目玉のひとつです。
私はある雑誌の記事を書くため、研究者に取材しました。
カリキュラムマネジメントとは、ものすごく簡単に言うと、教科書会社が考えたカリキュラム通りに教えるのではなく、その学校の子どもの実態、地域の実情にあったカリキュラムを、すべての先生たちが当事者意識を持ち、みんなで考え、話し合って決めましょう、という主旨のようです。
これはその通りです。何の異論もございません。学校の実態に合わせて教えたほうがいいに決まっています。
しかしですね、教員の多忙化縮減には逆行します。
カリマネを民主的に決めようとすればするほど、全校の教員たちが一堂に集まり、じっくり話し合うための多くの時間が必要になるからです。それぞれの意見を出し合い、合意を形成していくには莫大な時間がかかることは容易に想像できます。
このような進め方をすると、もしもうまくいかなかったとき、誰の責任かわからなくなるというメリットがあります。そういう意味では、学校だけでなく、多くの企業でもよく行われていることだといえます。
これに対し、校長と教頭などの管理職がカリキュラムを考え、「これやってください」と言ったほうが、どんなに時間がかからず、スピーディーに事が進むか……。
といいつつ、
カリマネに関しては、民主的でいいのかな、という気がします。授業は先生の本業であり、各人にとって、これは譲れない部分だと思われるからです。
ただ、学校で起こるすべてのことが、なんでもかんでも民主的である必要はないと思います。
例えば、事務作業的なことに関しては、会議などにかけないで、管理職がサクッと決めていいことにして、授業の内容に関することだけは民主的に進めるとか、線引きをすることが重要な気がします。
学習指導要領をもっと読みやすくしてほしい。
教育関係者でない人から、「学習指導要領ってなんですか」と聞かれることがあります。
知らないですよね、普通。
私もこの仕事を始める前は知りませんでした。
ものすごく簡単に言うと、各教科ごとに、どの内容を何年生に教えましょう、と文部科学省が決めたものです。これがあるおかげで、公立の学校では、足並みをそろえて指導できるのです。とても大事で、なくてはならないものです。教員にとってはバイブルだといえます。
10年に一度改訂されることになっていて、小学校は2020年から、中学校は2021年から新しいものが実施されます。その新しい学習指導要領が、今年3月に公示されました。
そのため、今、教育界は新学習指導要領ネタで盛り上がっています。こんなこと書いてあるけど、どうやって教えるんだ、みたいな話です。
新学習指導要領に書いてあることで、私が「ほんとかよ」とつっこみを入れたくなったことがあります。
それは、「新学習指導要領を一家に一冊用意して、みんなで読みましょう。子どもも読んで、学びの地図にしましょう」的なことが書いてある部分です。
ハッキリ言って、学習指導要領というのは、ものすごく読みにくいんですよ。
なんでかというと、最初から最後までずっと、ドアップでものを見せられているような気分になるからです。書いてあることが全部大事。でも、そんなに人間の集中力は続くものではありません。目で追ってるだけで疲れます。
しかも、教育用語のオンパレードですから、途中でうんざりするでしょう。
多分、普通の大人が読んだら、すぐ眠くなります。そういう意味では寝る前に読むと役に立ちそうではありますが。
多くの国民に読んでほしいのでしたら、少しは緩急をつけて、もっと読みやすくしていただきたいな~と私は思うわけです。