日本の教育を考える

日本の教育が少しでも良い方向に進化していってほしいなと願いつつ、感じたことを書いてみます。

日大チア部パワハラ問題と、学校のいじめの共通点

またまた日本大学です。今度は、チアリーディング部で、女性監督によるパワハラがあったそうですね。

この一連の流れの中で、私が気になったのは、大学の保健体育審議会の対応です。

女子部員側は保体審に監督との仲裁を求めた。当初は応じる姿勢を示したものの「監督と直接話してください」
女子部員側は保体審に監督との仲裁を求めた。当初は応じる姿勢を示したものの「監督と直接話してください」
女子部員側は保体審に監督との仲裁を求めた。当初は応じる姿勢を示したものの「監督と直接話してください」

毎日新聞によりますと、女子部員が大学の保健体育審議会に対して、仲裁を求めたところ、「監督と直接話してください」などと言ったそうです。

これは、非常にありがちな、ものすごくダメな対応例です。

 

まず、学校のいじめの対応で、これはよくあるダメなパターンだといえます。

例えば、Aくんが、Bくんを中心としたグループにいじめられ、Aくんが、担任に相談したとします。

このとき、ものすごくダメな担任は一人で解決しようとします。Aくんと、Bくんとその仲間たちを同時に呼び、話し合わせるそうです。担任は黙って見てるだけ……。

最近のいじめは、いじめてる側が頭が良くて、学級委員だったりするんですよ。Bくんは弁が立ちます。建設的な話し合いなんてできるわけないじゃないですか。

 

Bくんとその仲間は、Aくんの悪いところを言い連ね、担任は最後に「Aにも悪いところがあったな」と言い、ケンカ両成敗に持っていきます。みんなで握手して終わり、みたいな。

悪口の集中砲火を浴び、いっそう深く傷ついたAくんは、翌日から不登校になってしまうのです。学校に行けば、絶対に報復されるからです。

 

こういう場合、ちゃんとした担任であれば、学年の先生たちと協力して、Aくん、Bくん、その仲間たち、当事者全員に対して、生徒一人に先生一人で、じっくり話を聞きます。しかも、Bくんたちが口裏合わせをしないように、すべて同時進行で行います。

そりゃ、Bくんにも言い分はあるでしょう。Aのあそこが気に入らないとか、こういうところが嫌だとか。だからといって、「いじめてはいけない」ということを、Bくんとその仲間に指導しなくてはいけないのです。

 

また、企業のパワハラ・セクハラ問題の対応でもよくあることのようです。

例えば、ある社員が、企業の人権担当部署にパワハラやセクハラの被害を訴えます。

そうすると、担当者はパワハラ・セクハラ上司を思いやり、事を大きくしたくないため、「二人でよく話し合ってください」と言うそうです。

パワハラやセクハラをしてくる人と、二人きりでまともな話し合いなんかできるわけないじゃないですか。

結局、話し合いは行われず、被害者が会社を去っていくケースが多いそうです。

 

いじめを担任に訴えた時、あるいは、セクハラやパワハラを企業の担当セクションに訴えた時、「両者で話し合ってください」と言われたら……。

それを言った人は物を知らないし、問題を解決する能力を持っていないということです(人間的にいい人であっても……解決できません)。

だから、相談しても無駄。時間の無駄です。

他の相談ルートを探したほうがいいと思います。

それが無理なら、その組織からすみやかに脱出しましょう。

学校を「水筒OK!」にするには保護者の力が必要

猛暑のせいで、水筒を学校に持って行ってもいいでしょ、という声が聞かれます。

私個人は、子どもが体調を崩すぐらいならい、持っていけばいいじゃないの、と思います。

 

しかし、学校レベルで考えると、そう簡単にはいかないのも理解できます。

おそらく、要望した保護者のみ、個別対応ということで、持ってきてよろしい、となっている学校が多いのではないでしょうか。

 

それには理由があります。

①全員がそろわないものに学校はOKを出しにくい。

いろんな経済状態の家庭があり、いろんな価値観の保護者がいますから、保護者が水筒を買ってくれるかどうか、という問題があります。

いわゆる普通の家庭が多い地域に育った方には想像できないかもしれませんが、学校にはいろんな子どもがいます。

 

②「学校に水筒を持ってきなさい」となったら、学校が水筒を管理しなくてはいけない。

 

高学年になれば、自分で管理できそうですが、1、2、3年生あたりは管理がなかなか難しそうです。

2時間目までに全部飲んじゃった。

一度にたくさん飲みすぎて授業中にトイレに行きたくなった、下痢した。

落として水筒が壊れちゃった。

友だちのを飲んじゃった。

水筒を学校に忘れて帰った。

……などなど、放っておけばいろんなことが起きそうです。

水はよくてジュースはダメ、というルールを設けた場合、いちいち先生がチェックするんですか、という話になります。

先生たちは、それでなくても忙しくて休み時間もないし、トイレにもいけなくて困っているというのに、子どもがドリンクを飲むのをチェックしたりして、ますます仕事を増やすんですか、というお話です。

 

ですから、現在水筒OKになってない学校が、OKにもっていくには……学校に交渉してやってもらうよりも、保護者のみなさんが動いたほうがスムーズなのではないかと思います。

PTAのほうから話し合いを申し込むのです。

そして、例えば、クラスごとにPTAから水筒当番を出します…とか。

ドリンク係の保護者が毎日、2時間目の後の休み時間にスポーツドリンクをつくって配ります……とか。

PTAがこうしますから、学校は許可をお願いします、みたいに提案する形で話を持って行くのがいいのではないかと思います。

 

大事なのは、学校の先生たちの仕事をできるだけ増やさない方向で、話を進めることです。

などと書くと、そのぐらい先生がやってくれてもいいじゃないの、なんて声が聞こえてきそうですが、学校に全面的にお任せするつもりでいると、物事は進んでいかないんじゃないかと……。

なんたって「働き方改革」ですからね。

 

これも、子どものためです。

子どもを守るには、保護者の力が必要なんじゃないでしょうか。

ネットによって、常識は強化される

常識でしょ。

こうするべきでしょ。

よくこういうことを口にする人がいますが、常識的な方こそ、おおらかになっていただけたらなと私は思っております。

 

先日、高校時代の友人の告別式に参列しました。

告別式に参列するのは、何年かぶりだったので、すっかりいろんなマナーを忘れていたのです。で、こんなとき頼りになるのはネットです。

検索してみたところ、何を持っていって、何を着ていって、どんなふるまいをすればいいのか、事細かに書いてありました。

びっくりするぐらい。

 

告別式に行ってみたら、セオリー通りの人たちばかりでした。ネットに「こういうものを着ましょう」と書いてある通りの洋服を着て、「こういうバッグを持ちましょう」と書いてある通りのバッグを持っています。

そして、人をうまく誘導するスタッフがいて、無駄がありません。

亡くなった方が教育者だったせいもあるんでしょうが、胡散臭い人はいなくて、すばらしく秩序が保たれた空間でした。

正直、驚きました。

以前……、というのは、ネットの情報がこんなに充実する前のことですが、葬儀にはもっと混沌があったと記憶しています。

きちんとした人もいれば、ちょっとルーズな感じの人もいるみたいな……。

酔っぱらってる親戚のおじさんもいる、みたいな。

それもありでしょ、みたいな、あいまいさ、おおらかさがあったのです。

それは、「正しいお葬式」の答えを誰も知らなかったからです。

マニュアルなんて、誰でもすぐに見えるところにはなかったので。

ところが、今は、「正しいお葬式」の常識がきちんとネットに示されており、それを知らないと、あっという間に「非常識な人」になってしまいます。

知ってる人は常識人、知らない人は非常識、の線引きがしやすくなったとでもいいましょうか。

 

ネットの情報がこんなにも充実したのは、ここ10年ぐらいでしょうか。

ネットは非常に便利で、私も情報収集で頼っていますが、こうやって常識というのは強化されるのかと、実感しました。

この流れは止められないものでしょう。

別に嘆いているわけではありません。

みんなが同じような黒い服を着て同じ時間に、同じ空間にいたとしても、黒い服の中身は、個性豊かで、それぞれ自分の人生を一生懸命生きているに違いないと、私は知ってるからです。

 

ただ、私は少々心配になります。

常識が強化されると、秩序を保とうとして、非常識な、異分子的な人たちを責める人たちが出てくるんじゃないかと思うからです。

ちょっとだけ非常識(?)な人がいたとしても、私もそういう人ですけど、「そういう人もいるよね」と、おおらかに受け止めてくれる社会であってほしいなと思うんですよね(犯罪行為は別ですよ)。

 

それには、学校の教育が大事だと思うのです。

 

例えば、忘れ物をしょっちゅうする子は、「悪い子」じゃないってことです。

単なるうっかりではなく、そういう特性を持った子かもしれません。

その場合、先生から叱られたって、改善できませんからね(その特性を踏まえてどんな対策をしていくのか、を考える必要があります)。

みんな個性があります。違う考えを持っています。

それでよし、としないと。

秩序を保つことに熱心になりすぎると、結局、みんな苦しみます。小さな差異を見付けられて、次は自分が排除されるんじゃないかと心配になるからです。みんな総出で「非常識狩り」をする、みたいなことにならないでほしいんですよね。

 

常識が強化されやすい世の中になったからこそ、学校生活の中で、多少の違いは気にせず、おおらかに他者を受け入れることを教えてほしいな、なんて思っております。

「学校にエアコンがない」問題について考える

日本の夏は、本当に暑いです。

少なくとも中高年の私は、エアコンなしでは生活できません。

先日、炎天下に外を歩き回り、水分補給を疎かにして、軽度の熱中症になりました。

 

熱中症になるかどうかは、個人差があるはずです。

もともと身体が丈夫かどうかや、その日のコンディションも影響するでしょう。たくさんの子どもが集まる教室にはいろんな健康状態の子どもがいるわけですかから、エアコンがあったっていいじゃないかと私は思うのですが……。別にキンキンに冷やせといっているわけではなく、お役所と同じで、27度か28度に設定しておくぐらいは。

 

にもかかわらず、いまだに学校にエアコンが入ってない自治体があります。

そのような自治体のご担当者は「子どもは暑さになれることが大事」とおっしゃいますが、程度ってものがあるでしょう、と私は思うわけです。

 

まぁ、「エアコンを設置しない」を公約にかかげて市長選で当選した市長さんがいる自治体では、今後も「エアコンなし」でいくんでしょう。

「エアコンなし」派の市長さんと、その支援者の皆さんが多いということですからね。

 

で、一般庶民にできる、子どもたちの健康を守るための対策は

……その場所に住まないことです。

 

お子様をエアコンなしの学校に通わせたくない保護者の方は、住む場所を選びましょう。

隣の市の学校にエアコンがあるのなら、そちらへ引っ越しましょう。

子どもが学校に通う7歳から15歳ぐらいまでの9年間、エアコンのある市に住んで、また戻ってきたっていいじゃないですか。

 

「黙ってお上の言うことをきいていれば、きっとうまくやってくれる」時代ではありません。多くの市では、人口は減る一方で、今後も財政は悪化し続けていきます。

「子どもにお金をかけない」というのも、一つの方針です。その方針に賛同する人がそこに住めばいいわけです。

エアコンはつけてほしいけど、家を建ててしまって今さら引っ越せない、という方もいるでしょう。現状を維持するのも、一つの選択です。その分、家庭で子どもさんの健康管理をしっかりしてあげてください。

 

ちなみに、以前、学校選択制を行っている自治体に取材にいったとき、「エアコンのある学校は人気が高い」と聞きました。

人口減少に悩む自治体は、学校にエアコンをつけるといいかもしれません。

これから結婚して、新生活を始める若い夫婦にとって、プラス評価につながる可能性があります。

 

「エアコンを今後もつけない自治体」の人口は、10年後、減るでしょうか。

もしも減らないなら、辛くても耐え忍ぶ国民性は健在ということです。

はっきり数字に出るのか出ないのか、非常に興味があります。

学校には、道徳を教える資格があるのでしょうか。

神戸市で、いじめを受けていた中3年の女子生徒(当時14歳)が2016年10月に自殺した問題で、同級生からの聞き取りメモが隠蔽(いんぺい)されていたことがわかりました。当時の校長が市教委幹部の指示で隠蔽する方針が決まった後、教職員らに「メモは存在しないものとして扱う」と口止めしていたそうです。

こういう隠蔽事件が起こるたびに思うのは、学校に「道徳を教える資格はあるんだろうか」ということです。

 

大人は組織を守るために平気でうそをつきます。バレなければうそをついてもOKだと思っています。

国会中継を見ていればわかります。

大人は全然正しく生きていません。

 

日大アメフト部の事件を見ていると、大学生さんのほうが道徳的に行動しておられます。

道徳的でないのは、指導者である大人たちのほうです。

 

大人たちは自分の組織への思いやりはありますが、その組織の名誉や存続を揺るがす人への思いやりは持っていないのです。持とうともしないのです。

今回の事件であれば、亡くなられたお子様、そのお子様のご家族への思いやりはまったく感じられません。そして、そのことを疑問に思っていないようです……。

 

にもかかわらず、学校では道徳の時間に、子どもたちに、人を思いやること、嘘をついてはいけないこと、正直に生きることの大切さなどを教えているのです。

 

教育委員会、学校などの記者会見を見ていますと、みなさん、明らかに、裁判になったときのリスクを考えて発言しています。自分たちにとって不利になるかもしれないことは言うなと、弁護士さんから言われているのでしょう。

一般企業の方なら、それでもいいと思うのです。

しかし、学校は違うでしょう。世間が学校に厳しい目を向けるのもそういう思いがあるからです。

学校は、正直であってほしいです。保身のためではなく。本当に向けるべき相手に思いやりを向けて。

私自身は、どこにでもいるような、適当な、普通の大人の一人です。学校にそういうものを求めてしまうのは、わがままなんでしょうか。

 

小学校では道徳が教科になりました。

「考える道徳」といって、模範的な解答を求めるのではなく、子ども一人一人にじっくり考えさせようとしています。

せっかくなので、「嘘をついてはいけないと教えてきたけど、先生は自分や組織を守る為なら嘘をついてもいいと思う。みんなはどう思うか」と考えさせたらいかがでしょうか。

学校は今、「時間が足りない」と嘆いています。英語、プログラミングなど、教えるべきこと、教えたほうがいいことがたくさんあるからです。その状況の中で、道徳を教科にしてまで教える意味があるんでしょうか。

日大アメフト部悪質タックル問題がこれほど騒がれる理由

日大アメフト部の悪質タックル問題関連のニュースが、連日、配信され続けています。

おそらく10年前に同様の事が起こっても、これほど大問題にはならなかったはずです。

この問題がなぜこれほどまで、注目されるのかを考えてみました。

 

理由は三つあります。

①映像の存在とネットの普及

「インカムを落とし、それを拾っていたので反則プレイは見ていませんでした」という言い訳が、昔だったら通じたでしょう。しかし、今は映像を検証すれば「うそ」と判定されてしまいます。

そう、世の中は大きく変わったのです。今はどこの駅にも、防犯カメラが設置されている時代です。そして、警察もテレビ局に防犯カメラの映像を積極的に提供していますし、犯罪捜査に役立てています。一般市民もスマホを持ち歩き、隙あらば衝撃映像を撮影しようとしています。そして、それをネットを通じて簡単に拡散できる時代なのです。

前監督は、このような時代の変化に気づいていなかったのでしょう。

ご本人にしてみれば、何がいけないのか、わからないんじゃないでしょうか。だって、昔は口で適当に言っておけば、簡単にミスをごまかせたんですから。しかし、結果として、「うそ」をついたとされる記者会見の映像が連日、テレビで放送され続けることになってしまいました……。

今回の騒動のきっかけは、悪質タックルの映像が拡散されたことです。「これはひどいだろう」ということで共感を呼んだおかげで、うやむやにされなかったわけです。

インターネットの普及には、良い面と悪い面(個人情報の漏洩とか)があるとは思うんですが、今回は、良い面が出たように私は思っています。

 

②利害関係者が多い(今風にいうと、ステークホルダーですね)

・現役の日本大学の学生

公式サイトによりますと、日本大学の学生数は、74,712人だそうです(平成29年5月1日現在)。

日本大学のOB・OG

公式サイトに「平成21年に120周年を迎えた」と書いてありました。今は平成30年ですから、もうすぐ130周年になるわけです。卒業生の中にはお亡くなりになってる方もいるはずですが、OB・OGは100万人はいるんじゃないでしょうか。

・付属校の児童生徒と家族、卒業生

日本大学には、付属高校、中等教育学校、付属中学校、小学校、幼稚園、認定こども園、専門学校があります。付属高校を数えたら、23ありました。

これらの学校に通う児童生徒に加え、その家族、卒業生も関係者です。

・全国の受験生

日本大学への受験を考える高校生にとっては、今後改革を進めるのか進めないのか、気になります。

・大学でアメフトをしている人たち、そのOBたち。

あんな反則プレイを許してはいけない、と思っているはずです。

・全国で部活動をしている中学生、高校生と、その家族。この人たちは、大学の運動部の在り方、指導者の在り方に当然、関心があります。大学が、学生を守らないどころか、責任を押し付ける姿はショックですから。

 

ここまでくると、国民の3分の1ぐらいにはなるんじゃないでしょうか。みんな関係者です。

もっと薄い関係者もいます。

・大学時代に運動部にいた人。

昔はこうだった…などと言いたくなるはずです。

・組織の権力抗争が好きな人。

誰々の裏の顔とか、裏人脈とか、そういうのを好きな人もいるでしょう。

 

つまり、この問題に対して、何か言ってやりたくて、情報を収集している人は、たくさんいて、今や、多くの国民の共通の話題となっているのです。

 

今年3月、レスリング協会でパワハラ事件がありました。あの事件も相当話題になりましたが、利害関係者が日大ほど多くはありませんでした。大学の女子レスリング部の生徒と保護者、「パワハラ」に関心のある世間の人々、レスリング協会の人々、中学校・高校でレスリングをしている女子生徒たち、でしょうか。規模がずっと小さかったように思います。

③学校と社会がつながった

学校と社会は、ほんの10年前までは完全に分離されていました。校内で何が起こっていても、外の人は知りようがなかったからです。

しかし、①にも関連しますが、今は誰もが情報発信できる時代になり、ここ数年で一気に学校と社会はつながりました。

社会で起きたことが、学校に影響を及ぼしますし(働き方改革とか)、反対に、学校で起きたことが外に出るようになりました(良い面も、悪い面も)。

以前は、学校は「学校の常識」でことを運ぼうとする傾向が強かったのですが、最近は事件が起きれば、すぐに保護者会を開催して、事情を説明します。世間の常識を意識して対応することが学校には求められるようになりました。その結果、ちゃんとした校長先生はそのことを理解し、時代に合わせてしっかり動いています(個人差があります……)。学校は世間から厳しい目で見られがちです。不祥事のたびに叩かれながら、長い時間をかけて学んできたのです。

と、ここまで書いたのは、公立の小中学校の話です。

 

これに対し、大学は、いまだ独裁が可能な状態にあるということが、今回の騒動で明らかになりました。

しかし、みんなが「それ、おかしいんじゃない」と言いやすい時代に変わってきています。

そして、この流れは止められないのです。

なぜなら、小学校は2020年から、中学校では2021年から新学習指導要領が全面実施となります。この新学習指導要領が育成しようとしているのは、平たくいいますと、「おかしいものはおかしいと、はっきり主張できる子ども」なのです。

特に教育機関は厳しい目で見られます。

他の私立学校も、他者の意見を聞かないでトップが好き放題、やりたい放題をしていると、今後、何か小さなことがきっかけで、それが明るみに出て、非難にさらされる可能性が高いのではないでしょうか。

 

時代の転換期にきています。

日本大学は未来に向けて、どう舵を切るのか、注目したいと思います。

大川小津波訴訟…学校の事前防災をどうするか

教育現場には、昔からずっと変わらない部分もありますが、変わった部分もあります。

私がここ数年で変わったなと感じるのは、学校が社会とつながってきたことです。

 

それにより何が起こっているかというと、社会で起きたことが、学校にもかかわってくるようになりました。

以前は、社会で何が起ころうと、学校は自分の学校の中のことだけを、学校の中の人間たちで考えてなんとかしていればよかったのです。

授業研究をしましょう、行事をしましょう、授業参観をしましょう、などと考えていると、一年なんてあっという間に過ぎていきます。

 

かつての教育雑誌の目次を見ると、毎年、内容はほとんど同じでした。

学校関係者が欲しがる情報は、この季節はこれ、というような、毎年代わり映えしないものだったということです。

 

でも、今の学校は社会とつながりつつあります。

社会でLGBTが話題になれば、学校も何か対応を考えなくてはなりません。

社会で「働き方改革」が話題になれば、学校も教員の働き方の改革を求められます。

 

そうなると、学校内部の人間だけでなんとかしようとしても無理なことも、今後はどんどん増えてくるでしょう。

 

例えば、大川小の津波訴訟の控訴審の判決では、津波襲来に対する事前の対策を怠ったと学校と市教委の過失が指摘されました。

釜谷地区には、確か60年以上だったか、津波は来ていなかったそうですし、地元の人にとっても「まさか」の事態でした。地元の人の意見を尊重して、裏山に避難させなかったのかどうなのか、今となってはわかりませんが……。

学校や市教委にしてみれば、「事前防災といわれても、そこまで学校、教員に求められても……」との声も、挙がっていることでしょう。

確かに、市教委と教員たちだけで事前防災をやれ、と言われても無理だと思います。

 

大事なことは、日本全国で、今後このような悲劇を二度と繰り返さないことです。

それには、防災の専門家の意見を反映させる必要があります。

 

対策としては、市教委が地元の大学(公立でも私立でも)と連携し、大学と防災に関する共同研究を進め、各学校ごとのリスクを新たに想定し、どんなマニュアルが必要なのか、どんな避難訓練をするべきなのかを検討する、なんていうのはいかがでしょうか。

そして、検討したらそれで終わりではなく、継続的に検討し、改善していくのです。

そのためには、各大学に防災関連の学部が必要なわけですが、もしもない場合は……楽観的な考えを申し上げますと、新設したりできるといですよね。その大学に地域の防災研究の拠点になってもらえばいいと思うのです。

そうすれば、地方の大学が生き残るための道も開かれるのではないでしょうか。

もちろん、共同研究をするのは、防災の専門家がつくったNPOだっていいんですよ。

 

おそらく先生たちの中には、今迄通り、学校の中のことは、プロである自分たちだけで決めたいと考える人もいることでしょう。行動経済学では現状バイアスというのだそうですが、「現状を変えたくない」と多くの人は考えるそうです。

でも、先生たちだけでは手に負えないことが、何十年かに一度、起きることがあります。

そのときに備えておく必要がある、と大川小津波訴訟の裁判は示しました。

 

これは防災に限った話ではありません。これからは、いろいろな部分で、学校だけが全責任を負うのではなく、地元の大学や地域、保護者を巻き込んで(なんとなく、ではなく、きちんとした形で契約して、正式に責任を分散して)、みんなで子どもたちを育てていく必要があるのではないかと思います。