日本の教育を考える

日本の教育が少しでも良い方向に進化していってほしいなと願いつつ、感じたことを書いてみます。

ネットによって、常識は強化される

常識でしょ。

こうするべきでしょ。

よくこういうことを口にする人がいますが、常識的な方こそ、おおらかになっていただけたらなと私は思っております。

 

先日、高校時代の友人の告別式に参列しました。

告別式に参列するのは、何年かぶりだったので、すっかりいろんなマナーを忘れていたのです。で、こんなとき頼りになるのはネットです。

検索してみたところ、何を持っていって、何を着ていって、どんなふるまいをすればいいのか、事細かに書いてありました。

びっくりするぐらい。

 

告別式に行ってみたら、セオリー通りの人たちばかりでした。ネットに「こういうものを着ましょう」と書いてある通りの洋服を着て、「こういうバッグを持ちましょう」と書いてある通りのバッグを持っています。

そして、人をうまく誘導するスタッフがいて、無駄がありません。

亡くなった方が教育者だったせいもあるんでしょうが、胡散臭い人はいなくて、すばらしく秩序が保たれた空間でした。

正直、驚きました。

以前……、というのは、ネットの情報がこんなに充実する前のことですが、葬儀にはもっと混沌があったと記憶しています。

きちんとした人もいれば、ちょっとルーズな感じの人もいるみたいな……。

酔っぱらってる親戚のおじさんもいる、みたいな。

それもありでしょ、みたいな、あいまいさ、おおらかさがあったのです。

それは、「正しいお葬式」の答えを誰も知らなかったからです。

マニュアルなんて、誰でもすぐに見えるところにはなかったので。

ところが、今は、「正しいお葬式」の常識がきちんとネットに示されており、それを知らないと、あっという間に「非常識な人」になってしまいます。

知ってる人は常識人、知らない人は非常識、の線引きがしやすくなったとでもいいましょうか。

 

ネットの情報がこんなにも充実したのは、ここ10年ぐらいでしょうか。

ネットは非常に便利で、私も情報収集で頼っていますが、こうやって常識というのは強化されるのかと、実感しました。

この流れは止められないものでしょう。

別に嘆いているわけではありません。

みんなが同じような黒い服を着て同じ時間に、同じ空間にいたとしても、黒い服の中身は、個性豊かで、それぞれ自分の人生を一生懸命生きているに違いないと、私は知ってるからです。

 

ただ、私は少々心配になります。

常識が強化されると、秩序を保とうとして、非常識な、異分子的な人たちを責める人たちが出てくるんじゃないかと思うからです。

ちょっとだけ非常識(?)な人がいたとしても、私もそういう人ですけど、「そういう人もいるよね」と、おおらかに受け止めてくれる社会であってほしいなと思うんですよね(犯罪行為は別ですよ)。

 

それには、学校の教育が大事だと思うのです。

 

例えば、忘れ物をしょっちゅうする子は、「悪い子」じゃないってことです。

単なるうっかりではなく、そういう特性を持った子かもしれません。

その場合、先生から叱られたって、改善できませんからね(その特性を踏まえてどんな対策をしていくのか、を考える必要があります)。

みんな個性があります。違う考えを持っています。

それでよし、としないと。

秩序を保つことに熱心になりすぎると、結局、みんな苦しみます。小さな差異を見付けられて、次は自分が排除されるんじゃないかと心配になるからです。みんな総出で「非常識狩り」をする、みたいなことにならないでほしいんですよね。

 

常識が強化されやすい世の中になったからこそ、学校生活の中で、多少の違いは気にせず、おおらかに他者を受け入れることを教えてほしいな、なんて思っております。