日本の教育を考える

日本の教育が少しでも良い方向に進化していってほしいなと願いつつ、感じたことを書いてみます。

私立高校の授業料無償化…その先にあるのは?

世帯の年収などに関係なく全員に対して、私立高校も授業料を無償化する意味は何なのかを、考えてみました。

大阪府では全員への高校の授業料の無償化がすでに行われていて、その結果何が起きたのかというと……、たくさんの公立高校が定員割れしたそうです。

今までは「うちはお金がないから私立は無理。勉強して公立へ行きなさい」と言われて、頑張って勉強して公立へ行った人たちが、行きたい私立に行けるようになった、というのもあるでしょう。

公立高校はこれまで、特に営業努力をしなくても偏差値に合う生徒を集められていたわけです。しかし、「費用が安い」というアドバンテージを失えば、中学生に選んでもらえるような自校の特色を打ち出して勝負していかなくてはならないわけです。少子化が進んでいきますから、自治体は高校の数を減らしたいに決まっています。特色のない公立高校は淘汰されるのみです。

他の多くの自治体のように、一部の人だけ支援しても社会の構造は変わらないし、教育格差は縮まりませんが、全員に対して無償化すれば社会の構造が変わるということです。

 

何か月かおきに、「大学へAO入試で入る人が増えた」「推薦入試で入る人が増えた」と、ニュースになります。誰かが意図的にこのニュースを挙げているように私には見えます。

「大学入試は変わったんだよ」とみんなに知ってほしいわけです。受験勉強だけやればいいわけじゃないんだよ、時代は変わったよと。

 

大学入試で重視されるのが、高校時代にうち込んだこと、ボランティア経験や、地域の課題解決の取組みへの参加経験なのであれば、もう、塾に通って単語や年号を必死で暗記しなくてもいいわけです。生徒は塾通いをやめて、高校生活を充実させようとしますよね。

大学入試が変わると高校入試も変わります。
授業料が無料なのだから、そこへ行けば何ができるかが大事で、自分のやりたい活動、特色ある活動ができる学校を中学生は選びますよね。

高校の側も、自校の特色ある取り組みに対して、やる気のある人に入ってきてほしいわけです。テストの点数が高い人を入学させればいいってものではなくなります。

中学校では、子供の好奇心の芽をつぶさず、育ててやることが何より重要になるでしょう。

だから、今の受験制度を根本から変える必要が出てきます。

これからは偏差値なんて、あまり意味がなくなるのかも?

 

しかし、こんなふうに受験制度が変わっては困る人たちがいます。教育産業と塾です。当然、高校の授業料の無償化には反対します。もっと上を目指して、一点でも多く点を取れるように、頑張る子供がたくさんいないと、経営が成り立たないからです。

 

そもそも諸外国を見てみると、高校入試がこんなにも苛烈になっているのは、アジアの国々だけだそうですよ。

私たちは高校入試をあたり前のように受け入れてきましたが、本当に必要なのでしょうか?

今後も、テストの点数で子供のランクを決めちゃっていいんですか?

 

今回の高校の授業料の無償化で分かるように、国はゆっくりとですが、受験制度の改革を進めていくつもりなんじゃないかなと、私は勝手に思っています(国が設置している委員会の顔ぶれを見ていると……そう思ってしまうんですよね)。

解決できない課題がてんこもりのこの国の行く末を考えたときに、求められるのは、社会や地域の課題をみんなで解決していける人々だからです。テストで点数をたくさんとれる人を集めても、いい社会になるわけではないですからね。

 

社会はゆっくりとですが動いています。

私立高校の授業料無償化、反対ですか?

先日、飲み会で世間話をしていたところ、「私立高校の授業料の無償化なんてしなくていいのに。」と言っている人がいました。税金をそんなことのために使うなと。

その方のお子さんは二人とも附属から慶應だそうです。無償化しなくても、経済的に行ける人が私立に行けばいいじゃないかと。


その考え方も理解できますが、ただ、その方は私立高校の中でも、ものすごく偏差値の高い、トップレベルの高校を指してものを言っているように感じました。

 

ちょっと見方を変えてみましょう。

 

現実には、それとは真逆の、底辺校と呼ばれる私立高校が、どこの地域にもあります。私はかつて、偏差値は測定不能で、「答案用紙に名前を書けば合格」できるような底辺校を改革したA校長先生を取材したことがあります。

そのような学校に進学した生徒たちが勉強しないのは、「勉強するとおもしろいし、いいことがある」ことに気付ける環境で育っていなくて、勉強の仕方を知らなくて、「勉強なんかしたって無駄だ」と思っているケースが多いそうです。当然のことながら、親御さんも同じ考えです。
皆さんも想像してみてください。小学校の高学年から授業についていけなかった彼らはどんな部屋で暮らしていると思いますか?

しかし、おとなしくて無気力に見えた彼らは、実はその気になれば頑張れる生徒たちでした。A校長先生が彼らのやる気に火をつけたら、あっという間にこの学校の生徒は変わりました。前向きになり、自分から勉強し始め、それぞれが自分の進む道を見つけて巣立っていったそうです。

 

無償化は、偏差値トップ校の生徒には必要なくても、底辺校の生徒には必要なのではないかと感じます。親から子へと続く、負の連鎖を断ち切るためにも。

ただし、それとセットで、底辺の私立高校には頑張っていただく必要があります。今、高校を中退する人が増加しています。何もやる気になれず、学校という居場所を失い、夢も希望もない若者の未来は……?

このような人たちを増やさないために、高校がすべきことは、生徒たちのやる気に火をつけることと、自分の未来に希望を感じさせてやることでしょう。無償化をきっかけに、学校関係者の皆様にはぜひ考えてみていただきたいなと思います。

生成AIと学校教育① AIは嘘をつく

現在、AIの使い方などについてMicrosoftのオンデマンドで勉強中です。

文章を書く、ということに関して、AIで済むことが多くなるのは間違いなさそうです。

 

特に、メールについては、もっともらしいことを、丁寧っぽく書いてくれます。

例えば、メールで何かの勉強会に誘われたけれど、気が進まないので断るとします。

そういうとき、「参加できません」ぐらいしか指示を出さなくても、こんな感じの文章を書いてくれます。

 

大変興味深い内容の勉強会ですね。今後その視点はますます重要になってくると思います。私もぜひ勉強したいのですが、申し訳ありません。あいにくその日は別の予定が入っていまして参加できません。

 

みたいに、ちゃんともっともらしい理由を考え、心にもないことまで加えて、相手に失礼のない文面を考えてくれるんですよ。

つまり、みんながメールにAIを使い始めると、おそろしく丁寧な、本音がどこにあるのかわからない文章がスタンダードになるんでしょうね。

私のように旧時代の人間は、「その人らしさ」が出てこない文章には、なんとなくもやもやします。しかし、これからは、相手への配慮が行き届いた文章のメールが当たり前で、言葉が足りないメールを送る人は非常識……と認定されてしまうのかも。

 

しかし、相変わらずAIは嘘をつきます。

例えば、「優」は小学校の何年生で習う漢字ですかと、copilot(MicrosoftのAI)に聞いてみます。

copilotの答え

「優」という漢字は、小学校4年生で習う常用漢字の一つです。

 

これは間違っています。正解は6年生です。

普通にBingで検索すると、6年生だと表示されます。

 

AIは「わからない」とは言わないそうです。わからないことがあるときは、関係がありそうなことを適当に選んで生成する性質があるそうです。

だから、事実を確かめるようなことは、AIは使わず、検索したほうがいいということです。

AIは文書の翻訳や要約、会議の議事録をつくることなどが得意とされています。その場合も、不確かなことをどこかに紛れ込ませている可能性を否定できないわけです。人間がチェックしないといけないんですよね。

結局、大事なことは「AIに全部お任せします」というわけにはいかないようです。

 

今の小中学生は、すでに気付かないでAIを使ってるかもしれませんし、今後も使っていくことになります。

そんな子供たちに、小中学校で何ができるようになってほしいかというと……。

①AIと対話していくための、論理的な思考と、文章力を身に付ける

②AIは嘘をつくことがあるから、生成した文章を自分で読んで、正しいかどうかを判断し、間違っていたら修正する力を身に付ける

 

つまりですね、子供のころに身に付けないといけないのは、文章を正しく読み、書くことではないでしょうか。
何十年も前から変わらない、当たり前すぎる話ですが、これさえあれば、テクニック的なことは大きくなってからいくらでも学べますからね。


今の小学校の国語の教科書を見てみますと、かなりねちっこく、丁寧に、説明文などを読ませているんですよね。高学年になると、結構、高度な内容を学習していて、教科書に書いてあることをちゃんと学んでいけていれば、文章が正確に読める大人が量産されるはず……なんですよね。

特に新しく何かを始める必要はなく、先生方にAIの存在を意識して指導していただく、ということなのかなという気がします。

新人教員の自死…責任は誰にあるのか

福岡県春日市立小学校で24歳の新人教員が、採用からわずか半年後に、教室で首をつっている状態で発見され、翌日亡くなったそうです。この事件が起きたのは2019年ですが、当時はニュースになりませんでした。しかし、この件に関して遺族に対して学校関係者から説明や謝罪はなく、ご遺族は市教育委員会などに訴訟を起こすことにしたそうで、NHKが取材して報じました。

 

まずは亡くなられた方にお悔やみを申し上げます。

本当に悲しく、残念なことです。

 

学校内でこのような事件が起きたとき、学校も教育委員会も責任の所在を明らかにしないことが多いようです。

まずは、初任者教員(1年目の新人教員のこと)が自死した場合、その責任をはっきりさせる必要があるのではないでしょうか。

それは……校長の責任だと思います。校長に減給など、ペナルティを与えてもいいぐらいですよ。

そう書くと、「本人に問題があって……」などと言う方も出てくると思いますが。

 

本人の仕事のしかたに問題があったとしても、1年目の初任者に関しては校長の責任だと思います。

 

例えば、どこの会社にも、仕事ができる人とできない人がいます。一流大学出身でも、高校や大学の成績がよくても、仕事がうまくできない人はいます。そういうもんでしょう。

学校で働く先生の中にも、仕事ができる人とできない人がいるでしょう。

マルチタスクが苦手とか、仕事を一つずつしかできないとか、事務仕事が苦手とか、丁寧に時間をかけないとできないとか、手抜きができないとか、いろんなタイプの人がいると思うのです。そういういろんなタイプの人が働けることこそ、多様性ってもんでしょう。

学校は子供の多様性を認めようとしつつありますが、先生方の多様性は認めようとしない面があります。今はバリバリ仕事をこなして、仕事ができない先生にイライラしている方であっても、やがて状況が変わってくるかもしれません。親の介護や自分の体調の変化、家族の問題などで仕事に集中できなくなる可能性がないとは言えませんよ。いろんな人がいていいんだということ、ここの意識を緩くしていかないと、みんながつらくなるだけだと思うんですよ。

 

特に、1年目の教員には学校が手厚く面倒を見なくてはいけないと思います。

誰がって、校長が責任をもって。

そういうと、「初任者指導教員に任せてますから」などと言われそうですが、できる校長先生は、任せっぱなしにしないんですよ。

ある校長先生は、初任者に「何か困ったことはない? 初任者指導教員の指導のしかたはどう?」と、校長のほうから毎週声をかけていました。

校長が初任者をきびしく指導するのではなくて、初任者の声を聴いて、逆に、指導する側の初任者指導教員に「この指導法はよくわからないといってるから、変えてくれる?」みたいに指導していましたよ。初任者指導教員の中には、昔のやり方に固執してダメだしばかりする人がいますから、アップデートを促すのは校長の役目でしょう。

そういう学校の初任者は、校長先生に何でも相談できて楽しそうですよ。

 

ひと昔前だったら……例えば、ある学校に二人の初任者が配置されたら、二人に対して同じことを教えればよかったのかもしれません。

しかし、時代は変わりました。初任者を育てようと思ったら、一人一人に寄り添う必要があるのではないでしょうか。つまり、学校に二人いたら、それぞれに適した指導のしかたを考える必要があるように思います。

サクサク仕事ができる人にはあまり口を出さずにどんどんチャレンジさせて、逆に、仕事をなかなか覚えられない人には手取り足取り……みたいな。先生も個別最適な学びが必要なのではないかと思うのですよ。

「そこまでできないよ~」という声が聞こえてきそうですが、初任者指導教員の中には、校長と連携しつつ、そういう指導の仕方をしている方もいます。

 

そうやって、なんとか初任者の一年を終え、その後、学校の雰囲気が合わない、仕事のしかたが合わないと感じた方が転職する、というのはあって当然のことです。それを止める必要はないと思います。別の分野でご本人の得意分野を生かせるかもしれませんしね。

でも、初任者の間は、校長先生がしっかり面倒を見てあげてほしいと思ってしまうのですよ。

学校によっては「初任者つぶし」の保護者がいる、という話を聴いたことがあります。

初任者に、対応が難しいとわかっている手強い保護者の相手を任せきりにするなんてもってのほかですよ。まずは校長先生が見本を見せてあげてほしいし、それが無理ならせめて一緒に考えて一緒に対応してほしいです。お願いします。

都内底辺校から海外の一流大学へ進学、それを可能にしたH先生

東洋経済オンラインで、

1年で1割退学「崩壊する都内底辺校」の教育現場 タバコ・喧嘩・妊娠で退学が日常茶飯事だった | 教育困難のリアル

という記事を読みました。

 

今年3月、いわゆる底辺の私立高校を、「海外の一流大学へ進学できる高校」に変えたH校長先生の取材をしたのです。

東京都の場合、高校は無償です。底辺校には名前さえ書けば入れます。勉強する気はなく、まわりからバカにされ続けて、すっかり無気力になった生徒たちが集まってきます。上記の記事に書いてあることは、納得できます。

 

でも、私が取材したH先生は彼らのやる気のスイッチを入れることができたんですよね。だから、彼らは自ら勉強を始めたのです。

どうしてそうなったのかは、「みんなの教育技術」というサイトの記事に書きました。

底辺校に通う高校生も、やり方次第で悪循環から抜け出すことは可能です。

 

ただ、その記事には書かなかったことがあります。

書きたかったのですが、あまりにも記事が長くなってしまうので書けなかったのです。

それはですね、H先生は「校長室は第二の保健室」だとおっしゃっていたことです。毎日、教室に入れない生徒がやってきて、ここで過ごしているのだと。

みんながみんな、前向きになって勉強しているわけではなく、なかなかそうなれない生徒もいるそうです。H先生は校長室で、そんな生徒たちの話をじっくり聴いてあげて、相談に乗ってきました。

 

実際に、H先生の高校の生徒全員が海外の大学への進学をめざすわけではなくて、卒業して就職する生徒もいます。いずれにせよ、生徒自身が自分の未来を選択できるように、H先生は背中を押し、伴走してきたのです。

「底辺校から海外の大学へ進学した」と、そのことばかり注目されてしまいがちですが、実は、見えないところでH先生は生徒たちの心をケアし、適切なサポートし、信頼を勝ち取っていたのでした。

結局、生徒に人間として向き合うこと、それができるH先生はすごいと感じます。

徳島県の県立高校の1人1台端末の不具合ネタ。今後は大丈夫かと勝手に推測

またまた大手新聞が大好物の、1人1台端末の不具合ネタです。

本当に好きですよね~。

 

朝日新聞の5月28日配信の記事によりますと、

徳島県教育委員会が県立学校に配備した「1人1台」のタブレット端末に故障が相次いでいる問題で、端末を納入した四電工(高松市)が28日、不足分を補いたいとして、端末の無償提供と修理を県教委に申し出た。中川斉史(ひとし)教育長は受け入れる考えを示した。

とのことです。

 

業者が責任を持って対応してくれて、一件落着です。

でも、きっとまた……なんて思う方もいるかもしれませんが、今後、徳島県は、1人1台端末に関してはあまり心配ないと思います。

なぜならば、中川斉史先生が教育長になられたからです。

中川先生は、最近まで県内の小学校の校長先生をしておられまして、ICTにものすごく詳しいことで有名な方です。私は過去に取材したことがあります。

今後は業者の言いなりにはならず、しっかり目を光らせてくださるのではないでしょうか。

 

今回は県立高校の端末の不具合ですが、県内の小中学校にとってもICTに詳しい人が県教委の上層部にいると、心強いのではないかと思うのです。

小中学校の端末に関して、人口の少ない地域では町教委が納入業者の選定などをやってきたわけですが、なにしろ子供が少ないし、その分、先生の数も少ないですから、ICTに詳しい先生がいない町もあったりします。そうすると業者の選定がそもそも……な場合もあります。

A町は1人1台端末を積極的に使っているのに、隣のB町は全然使えなくて故障だらけとか、そんな状況も起きてしまったわけです。

大きな市は、先生の数が多いですから中には詳しい先生たちもいて、自分たちで対応できるとしても、町は、県でまとめて事を進めるって大事ではないかと思ったりします。

給特法を撤廃すべきと考える理由 その④ 人材の流動化に対応するため

給特法を撤廃すべきと考える理由、4つの中の4つ目です。

 

【給特法を撤廃すべきと考える理由その④】

人材の流動化に対応するためです。

 

今の20代の人たちの仕事に対する考え方は、変わりました。

一生、一つの会社で働き続けようと思っている人は少ないようです。

大量の人材が、企業間を行き来する、そういう時代になりつつあります。

 

学校も教育委員会も、「せっかく先生になった若い人たちには、やめてほしくない」と思っていることでしょうが、やめていく人を引き留めればいいというわけではないと思います。

仕事というのは、実際にやってみないとわからないものです。子供のころから先生に憧れて、努力して先生になってはみたものの、「体調を崩して続けられない」とか、「他の仕事をしてみたくなった」とか、そういう人が出てくるでしょう。

そういうとき、「自分には教員の仕事しかできない」と、長期間にわたって休職する人を増やすよりは、若いうちに自分の居場所、自分に合う仕事を探していくほうが、その人の人生にとってプラスになると思うのです。

 

忘れてはいけないのは、人材の流動化は、「出て行く人」ばかりではないということです。反対に、他の職業から、教員になる人も増えるのではないでしょうか。

そんなとき、給特法という、「定額働かせ放題」として知られる法律があることで、「教員だけはやめておこう」とスルーされてしまいかねません。

学校が人材の流動化のサイクルの中に入り、外の世界から人が入ってきやすくするためには、競争力を高める必要があります。だからこそ、給特法は撤廃した方がいいと思います。