日本の教育を考える

日本の教育が少しでも良い方向に進化していってほしいなと願いつつ、感じたことを書いてみます。

いじめを認めない市教委。

取手市教委の態度が問題になっております。

女子中学生の自死がなぜ起こったのか、第三者委員会までつくって調査したのに、その原因にいじめがあったと認めなかったと。

それが、文科省からの鶴の一声で認めたと。

 

これは取手市教委に限ったことではないと思います。

どこの市教委も「いじめがあった」と認めたがりません。

理由の一つは、「損害賠償に備えて」ってことだと思われます。

今は、もしもご遺族が訴訟を起こした場合、1人あたりだいたい1億円ぐらい支払うことになるそうです。

誰が払うかっていうと、学校の設置者である市です。

つまり、税金から。

市としては、これは避けたいのが本音ではないでしょうか。

 

それから、もう一つの理由は、教育委員会と学校の組織の問題です。

教育委員会も学校も、みんな身内です。

内部の人間(教員、子ども)を守る方向に、団結して大きな力が働くんですよね。

 

教育委員会の方も、学校の先生たちも、会ってみるとみんな良い人たちです。

取手市教委の人たちもいじわるをしているつもりはないんですよね、きっと。

ただ、善人であるがゆえに、ひとたび事件が起こると、たとえいじめていた子であっても、子どもを守らなくちゃ、いじめに気付かない先生がいてもそれはしょうがないから、先生も守らなくちゃ、誰も傷つかないようにしようと、そういう方向に考えるようです。

教委にしてみれば、悪いのはいじめた子であって、先生のせいじゃない。学校のせいでもない。いじめは巧妙に行われるから、先生が気づかないこともあると。

そして、いじめた子も大事な生徒だから、守らなくちゃ。教育しなくちゃと。

 

その結果、誰のせいでもない感じになります。

そして、客観的であろうとして……いろんな事実に基づいて正確に言わなくちゃと思うあまり、「いじめとは断定できない」と言ってしまうんですよ。

そりゃ、あれもこれも、考えたら原因なんかいくらでも考えられますからね。

原因は一つじゃないだろうから、断定できないと、そういう論法です。

その感覚がご遺族、多くの保護者、テレビの視聴者とずれているわけですが、市教委は弁護士さんのアドバイスを受け、大真面目に、事実を正確に言ってるつもりだと思います。

弁護士さんは損害賠償を念頭に置いてますから、断定しないように、と当然いうでしょうよ。

 

でもね、その学校に通う子どもが自死してしまった時点で、アウトです。

問題があったんですよ。

そのクラスの子にも、担任にも、学校にも、教育委員会にも。そして、学校の設置者である市にも。

誰も傷つかないように……なんていうのは無理なんですって。

昔だったら、なんとなくぼんやりしたままでも逃げ切れましたが、今の時代は無理です。

情報公開の時代です。

だから、自死してしまった子がいる以上、非があると認めないとね。

 

つまり、絶対に、子どもを自死させてはいけないということです。

 

では、自死を防ぐには、いじめをなくすにはどうしたらいいのか……。

例えば、クラス担任を1人ではなくて、2人か3人にしたらいいと思います。

(財源はどうするんだ、という話は横に置いて…)

1人は教員、もうひとりはカウンセラーとか、とにかく人の心の動きに敏感な人にするわけです。そして、違いを認め合うような、子どもが話しやすいようなクラスをつくること、それが大事だと思います。

現在のように担任1人では、その担任が人の気持ちに敏感でないタイプの場合、いじめは見つけられないと思うからです。