日本の教育を考える

日本の教育が少しでも良い方向に進化していってほしいなと願いつつ、感じたことを書いてみます。

教員の「働き方改革」は論理的に解決できない。

タイトルに惹かれて、

「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか」(山口周著、光文社新書)を読みました。

著者は、電通で働いた経験があり、海外でも活躍する一流の経営コンサルタントのようです。

「これまでのような「分析」、「論理」、「理性」に軸足を置いた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスのかじ取りはできない」と書いてありました。サイエンスも大事だけど、「真・善・美」も大事。なぜかというと、論理で解決できない場合は、「真・善・美」で判断するしかない場合もあるから。だから、エリートに「真・善・美」のような美意識を育まないと、適切な判断ができなくなる。美意識がないエリートの典型的な例として、オウム真理教の信者の例が挙げられていました。

 

論理だけでは判断できない、という部分は、学校教育にもあてはまることです。

 

学校現場の場合は、今まで「真・善・美」を重視してやってきて、ここ数年でやっとサイエンス、つまり、エビデンスで考えることが定着してきたところです。

ビジネスでの「数字がとれれば何してもいい」「売れればよい」のように、そこまではサイエンスに振り切った考え方にはなっていません。

 サイエンスで物事を語ることは重要ではありますが、教育現場の場合は、どちらも大事ですから、今後は、両者のバランスをとる、という作業をしていかないといけないと思うのです。

 

ただ、教員の「働き方改革」に関しては、論理だけで片づけようとしているように見えて、だから、なかなか進展しないんじゃないかと思うわけです。

例えば、

①中学校の部活動の指導は、教員の勤務時間外にあたるから、学校が運営する必要はない。外部のクラブに任せるべきだ。

②中学校の部活動は、生徒指導上、重要な役割を果たしているから、学校が運営するべきだ。

①も②も、一つ一つ見れば、論理的には正しいわけですよね。

一つ一つ正しいことが、学校現場では複雑にからみあっています。そうなってくると、論理的に解決できなくないわけです。

だって、①と②は同時に成立しないですからね。

あちらを立てれば、こちらが立たず、みんなに公平になんて無理でしょう。

そうなると、最後は誰かが、「真・善・美」で、何を選び、何を捨てるのかを選ぶしかないんだろうと思います。

論理をふまえはするけれども、この国の未来のためにはたぶん、こうするのがいいだろう、みたいに誰かが直感で判断するのです。

 

文科省が「働き方改革」の会議をすることには意味があるとは思います。いろんなアイディアがありますよと専門家の意見を示したり、国も考えてますよ、努力してますよ、という姿勢を示したり、なんとなく教員たちの合意を形成したりする、という意味で。

忘れてはいけないのは、文科省が何回会議をしたところで……最終的に判断するのは……文科省ではないということです。

「真・善・美」でどうするのかを選ぶのは、市教委の教育長だと思います。

 

そのためには、教育長に「昔すごかった人」を据えるのではなく、現在の教育問題に正面から立ち向かっていける人を選ぶ必要があります。

しかし、残念ながら、教育長は名誉職になっている場合もあります……。昔はどうだった、こうだったとしか話ができない方にはご退場いただいたほうがいいということです。

 

教育長の人選には、市長や区長の教育問題に取り組む姿勢が現れます。

東京のある区の教育長さんにお会いしたことがありますが、その方は教員ではなく、区の職員だったそうです。区長は、なぜこの方を教育長にしたかというと、業務の改革が得意な人だからです。改革のできそうな人をあえて、教育長にしたのです。そして、その区は教育改革をどんどん行い、いらないものをなくし、新しい効果的なことを始め、子どもの学力を向上させています。

つまり、結論としては、「忖度の得意な人」ではなくて、「現実の問題を解決してくれる人」を市長に選びましょう、ということです。

というわけで、選挙に行きましょう。

市長や区長が誰になるかで、地域の教育は、というか教育に限った話ではありませんが、全然違ってきてしまいます。

東日本大震災から7年。原発から10キロ圏内の浪江町の今

2018年1月11日、取材で、南相馬市へ行ってきました。福島第一原発から20キロ圏内にあたる地域の避難指示が解除されましたので、本格的に教育の復興に取り組んでいるからです。また、南相馬市は「ロボットのまち」として未来に向かって動き出しています。詳しくは「総合教育技術」2018年4月号(3月15日発売)に書いています。

 

ただ、お隣の浪江町福島第一原発から10キロ圏内)はというと、避難指示が解除された地域でも、まだそこまで復興が進んでいないようです。

取材の後、浪江町まで足を延ばしました。

がれきなどはすでに撤去されていますので、海の近くには、なんにもない土地が広がっています。田んぼでも畑でもない、なんにもない土地です。この土地にかつて、何があったのでしょうか。

車の中から撮ったので、影が映ってます。

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工事関係者以外は、誰にも遭遇しませんでした。

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海岸線には防潮堤を建設中でした。右も左も、ずっと壁が続いています。

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白い塀でか囲まれた一角があります。中には大量の黒い袋が並んでいました。

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浪江町には放置状態の空き家がたくさんあり、かつてここにたくさんの家族が暮らしていたのかと思うと、なんともやりきれない思いになりました。

でも、ほんの数キロ離れると(南相馬市の小高区のあたり、20キロ圏内)、全国のどこにでもあるような、普通の郊外の町の光景が広がっていて、車がたくさん走っていますし、散歩している地元の人を見かけました。

最近では、東日本大震災関連のニュースを見かけることは減っていますが、被災地では今も復興が続いています。

部活動の数を減らせ、と言うのは簡単。でも…。

中学校の部活動改革の話です。

子どもの人数、教員の人数に対して、部活動の数が多すぎる、それはそうだと思います。

放課後、中学生が町をぶらぶらするよりは、部活動でもしてもらったほうが、教員も保護者も安心です。たとえ少人数の部活でも、入ってもらったほうが生徒指導上はいいので、「好きな部がなければ、つくりましょう」と、そういう感じで、長い時間をかけて増えてきたのだと思います。

でも、教員が教科の指導で忙しくなってくると、のんびり部活動の指導などしていられなくて、負担になってしまったわけです。

 

部活動の数を減らす、これは非常に合理的な判断だと思います。

でも、世間でこれだけ部活動問題が騒がれているのに、部活動の数の削減が進んでいかないのは、学校にはこれができないってことだと思います。

なぜか。

それは、子どものニーズに応えられなくなるからです。

学校は、多様化する子どもたちのニーズにきめ細かく対応するのか、あるいは、教員の負担を軽減するのか……。

今は、子どもたちを優先しているってことです。

 

本気で部活動改革をしたいのなら、部活動の数を削減する必要があり、それには…学校は「善人」でいてはダメなんじゃないでしょうか。

ある日、「忙しいんで、テニス部はなくします」と言い放ち、子どもがぶーぶー文句を言っても「ごめんね」で終わり。保護者がクレーム言ってきても「すみませんねぇ」ですませて、教育委員会に保護者が苦情を持ち込んでも「しょうがないんです」と。

それぐらい図太く、悪者にならないと。

例えば、「まったくもう、学校は何もしてくれないんだから」「給料泥棒」みたいに、社会全体から文句を言われることに、教員の皆様が耐えられるようにならないと、部活動改革はできないんじゃないですかね。

「先生はいい人」「先生大好き」と言われることより、「家庭も大事」「プライベートも大事」と言い切れるようにならないと、無理っぽい気がします。

つまり、すべて先生の発想の転換が必要であって、それはなかなか難しいことだと感じております。先生になるような人は、基本的に子どものころから「いい子」で、「いい人」になるように育てられてきているからです。

現在、文科省で働き方改革関連の会議が行われておりますが、私からみると、「いい人」というポジションをキープしつつ、改革をするにはどうすればいいのかを、みんなで一生懸命考えていらっしゃるように見えます。

まぁ、そうできれば一番いいんでしょうけど、「いい人」をキープしながら、改革をするのは現実的には難しいことだと思うのです。

改革をしようと思ったら、学校は「保護者や地域の皆さん、生徒の要望には応えられません」と言わなくてはいけないし、一部の子どもや保護者をすぱっと切り捨てないといけないんですよね……。

いろいろ考えてると、それが果たしていいことなのか、とも思えてきますし…。

 

しかしですね、世間が部活動問題に注目することには意味があって、少しずつ少しずつ、先生たちの発想の転換、保護者や世間の発想の転換が進んでいくんじゃないかと、密かに期待しています。着地点はまだ見えないですけどね。

働き方改革と英語の教科化

小学校で英語が教科になること自体は、私は賛成です。

ただ、すべての担任が主導権を握って英語の授業をする、というのは反対です。

 

今だってすでに忙しいのに、英語の授業も加わるわけですから、「働き方改革」なんてできるわけがないじゃないですか。

文科省様は、「今度から英語も教えろ」と仕事を増やしておいて、その一方で、「働き方改革」の会議を進めているのは、やってることが思いっきり矛盾していると思いますよ。

 

小学校で英語を教えるのであれば、

①一番いいのは、英語を専科にして、英語の専科教員を配置することでしょう。←えらい人に聞いたところ、これは無理だそうです。

②ALT、外部の英語教師などに丸投げしましょう。担任はその時間、他のことをしていていいことにしましょう。←担任がやらなきゃダメなんだそうです。

となったら、③です。

③英語が好きで、自分なりのやり方で授業をしたい人はそれでOKですが、自信がない人に対しては、国あるいは、各地の教育委員会が作成した動画を配付し、その動画を使って授業をしましょう。

「英語を教えるのがうまい人」の動画を見たほうが、へたな英語を話し、英語の本質は何かがよくわかってない先生に教わるより、何倍もいいと思うんですよ。

動画は15分程度でよく、それをみんなで見てから、担任が「じゃあ、みんなで練習してみよう」みたいな感じで授業を進めるのもありだと思うのです。

このやり方なら、授業の質も保たれるのではないでしょうか。

 

 

リーディングスキルが大事な理由

 本日発売の「総合教育技術」2018年2月号で、リーディングスキルについて書きました。自分でいうのもなんですが、おそらく現在、日本で一番詳しく書いてあります。研究しておられる新井紀子教授のインタビュー、戸田市の取り組み、戸田市の小学校で向上させるためにどんな授業が行われているのか、まで書いています。

 

そもそも、リーディングスキルとは何かといいますと……。

リーディングスキルを単純に日本語にすると、「読解力」になってしまいますが、国語の読解力とは違います。もっと基礎的な読解力をさします。

具体的には、係り受け、「それ」「これ」は何をさしているのかなどの6つの項目があります。

たとえば、AはBと同じである。BとCは異なる。AとCは同じか。

みたいな問題に対し、「同じである」と答える子どもが多く、それはつまり、文脈を正しく読めないからだ、ということです。

要するに、学力以前の問題なのです。

文脈を読めているかどうかを判定するために、リーディングスキルテストというものがつくられました。これが一昨年のことです。まだ研究がはじまったばかりです。

昨年秋、新聞報道で、「中高生の6割は教科書を正しく読めていない」ことがニュースになりましたが、これは、リーディングスキルテストの結果をもとにしています。

リーディングスキルテストの結果を見ると、成績が高い子どもは、リーディングスキルが高いかというと、そうではなく、高い子も低い子もいるそうです。

そして、これがものすごく重要なんですけど、リーディングスキルと進学先の高校の偏差値には高い相関関係があるそうです。つまり、リーディングスキルが高い人は、偏差値の高い高校へ進んでいるんですよ。小学校では成績が良くても、中学校ではあまり……という方はもしかすると、リーディングンスキルが低かった可能性があるということです。

で、このテストを開発した新井紀子教授によりますと、リーディングスキルは、自然に身に付くものではなく、そのための訓練をしないと身に付かないそうです。私自身はそんな訓練をした記憶がありませんが、多くの大人は忘れてしまっているだけで、何らかの訓練をしているはず、だそうです。

 

例えば、優しいお母さんが、なんでも先回りして言ってくれて、子どもは、「うん」と「単語」しか言わない、そんな家で育った子どもは、ものを深く考えようとする機会を逃している可能性がありますよね…。文脈を読む必要なんかないわけです。難しいことはお母さんが翻訳してくれるから。

こういうちょっとしたことが、影響している可能性はありますよね。

 

しかし、学校にできることはあるはずです。

 

一回目にこの企画をだしたとき、編集長のOKがでませんでした。現在、研究が始まったばかりで、指導法が確立されていないからです。

数か月後に、再び企画をだしたところ、「そんなにいうなら、やってみていいですよ」と言ってもらえて、相変わらず指導法は確立されないままですが、実現したのです。

私は、これはなんとかしないと~と強く感じているのですよ。リーディングスキルはすべての学力のベースになるものであり、英語より、プログラミングより、まずはこっちが大切なんじゃないの? と思うからです。

指導法が確立されるのは何年先になるのかわからないですから、それまで、今の小中学生を放っておくわけにはいかないと思うんですよ。

だから、記事をお読みになった学校関係者、教育委員会の方たちが、一緒に指導法を探していただけたらなと思っております。

みんなで研究したほうが、早く見つかるんじゃないかと思うからです。

教育は…市教委の時代へ突入。

一昨年ぐらいからですが、市や区の教育委員会に取材に行くことが増えました。

それは、市教委や区教委が独自の取り組みを行っているケースが増えているからです。

たとえば、部活動問題であれば、多治見市、杉並区などのように。

 

今までは、スーパー校長先生のいる学校を紹介することが多かったのですが、校長先生はだいたい2~3年で異動してしまうため、校長が異動して取り組みが終了のパターンが多く、せっかくの素晴らしい取り組みが継続しないという決定的な弱点がありました。

その点、市教委が進めている取組みであれば、校長が変わっても継続しますから、良い効果が持続するのです。

 

昨年11月、戸田市教委を取材しました。

おそらく、今現在、ここが日本で一番元気な市教委なのではないでしょうか。産官学民の連携でいくつもの取り組みを進めていて、学力も急上昇中です。ベンチャーと組んでいろんなチャレンジをしています。チャレンジしないことには、教育現場は動いていきませんからね。これから、どんなエビデンスを出してくれるのか、非常に楽しみですし、応援したいと思っています。

 

戸田市の教育長様にお会いし、お話をうかがうことができたのですが、「文科省を蹴って、戸田市教委に来た人もいる」と言っておられました。

これはどういうことかといいますと、

文科省は国全体のことを考えますから、思い切った教育政策を行うことができないということです。国内にはいろんな地域があるわけです。所得の格差もあります。ある政策を行うとしたら、この県は歓迎だけど、あちらの県はいらない、みたいなことになりますよね。バランスを考えていたら、身動きができなくなります。

 

一つの政策で国全部をなんとかする、というのは非常に難しいということです。

 

その点、市教委のほうが、地元のニーズに合った効果的な政策を考え、実行しやすいできますからね。動き出してからの微調整もしやすいし、失敗したら、すぐにやめられます。当然、効果も出やすいはずです。

その結果、どうなるかといいますと、今まで以上に、どの地域に住むかで、子どもの学力、将来が違ってくる可能性があるということです。

 

さぁ、大変です。

動き出してる市は、ガンガン政策を進めていますからね……。

公立の学校に行かせる親御さんたちは、どんな地域で子育てをしたいと思うでしょうかね……。

従来通り、文科省、県教委の言う通りに仕事をしているだけの市教委は、子どもがますます減ってしまうんじゃないでしょうか。

 

そんなわけで、私は、教育は市教委の時代だと勝手に思っています。

市教委で働くみなさんは、元々優秀な方たちのはずです。

文科省の動きを待っているのではなく、自分たちの地域の子どたち、教員のために何をしたらいいのか考え、どんどん政策を打ち出し、実行していただきたいなと願っています。

 

 

忙しい、できる先生はここが違う!

私は教育委員会の担当者や校長先生を取材したら、発売前に原稿を確認してもらうことにしています。

新聞だと記事の賞味期限はその日で終わりますが、月刊誌は一カ月間繰り返し読まれることが想定されるからです。

間違っていることを書いてしまったら大変ですからね。

そのやりとりで思うのでは、仕事のできる人、忙しい人というのは、微妙な表現ではなくて、「書かれている内容が正しいかどうかをチェックする」ということです。この人たちは、自分の思いや考えを人に伝えることの難しさを知っているのでしょう。言いたいことの本質的な内容に間違いがなければ、それで「よし」とするのです。

忙しいから。もっと他に大事なことがあるから。

ざっとチェックして「あとはおまかせします」という感じです。

 

それに対して、ひまそうな、あまり仕事ができなそうな人は、細かいんですよね。「いちいち表現をチェック」します。この言葉はこう変えてほしいとか、インタビュー時に言わなかったとを、書き加えてくるのもこの人たちです。しかも、修正したら、それをまた見せてほしいといってきます。

完璧を求めるんでしょうね…。

おそらく何時間もかけて修正しているんだろうな、と推測され、こういう人って、実はヒマなのかな~と私は思っています。

そして、他人を(つまり私を)全然信じてない(笑)。

なんでも自分でしたい。

 

教員のみなさんに、お伝えしたいことは…、

忙しい、仕事ができるとされる先生たちは、けっこう雑だということです。それでも大丈夫なんですよ。ポイントさえ押さえていれば。

 

①完璧を求めない、

②人に任せる(なんでも自分でやろうとしない)’、

できる人はそうやってたくさんの仕事をこなしています。

子どもに関することは丁寧に対応する必要があると思いますが、事務的なこともふくめ、全部の仕事を完璧にこなそうとしてたら、何時間あっても足りませんよね。

ミスを怖れる気持ちもわかりますが、すべてに完璧を求めている限り、教員の働き方改革はできないんじゃないでしょうか。

業務改善も大事ですが、根本的な問題として、①と②の考え方に改める必要がある気がします。

 

以前会った校長先生が、「アンケートでも文書の作成でも、なんでもものすごくまじめにやる教員がいる。だから、その教員には、これは適当でいいよとか、言ってあげていた」と言っていました。

本当は、そんなことはいちいちいわなくても、要領良くやってほしいところですが、校長先生がそこまで言わないと、働き方改革は進まないのかもしれませんね。