ワクチン接種と一人の重み
新型コロナウイルスのワクチン接種が進んでいます。
私は接種するつもりですが、まだです。自治体の対象年齢ではないためです。
ワクチン接種について考えるたび、気になることがあります。それは「一人の重み」です。
新聞社のネット記事を読みますと、ワクチンを打った後に亡くなっている方がけっこういるようです。
何百人かはいるそうです。
政府の公表する数字よりも多く。
全人口の1%にも満たない数ですが、「これは仕方のないこと」で済ませていいものなのでしょうかね。
そう考えてしまうのは、私が教育関係の記事を長く書いてきたからかもしれません。
学校では、「一人」への対応に、ものすごくコストをかけています。
例えば、2018年7月、愛知県豊田市の小学校で、一年生の児童が熱中症で亡くなりました。
その結果、この学校だけではなく、日本中の学校、先生たちが、このことを重く受け止めました。今でも、夏になると、先生たちの口から、「あってはいけない出来事」として語られることが多いのです。
このことがきっかけで、全国の小中学校に冷房が配備されたと言われています。
たった一人であっても、その「一人」を、もう二度と出してはいけない、そういう発想で学校は動いています。
だから、ワクチン接種の後、亡くなった方の話を聞くと、非常にもやもやします。
多くの方は、「因果関係不明」で処理されているとのこと。
みんな「コロナ禍を生き伸びるために」ワクチンを接種したのに……。
学校で何かが起きると、新聞やテレビも、世間も「一人でも犠牲者を出してはいけない」と糾弾してきたわけです。
しかし、今、いきなり全体主義が登場し、少数の犠牲はしょうがないんだ、残念だが社会とはそういうもんだと言われてるような気がして、戸惑っています。
(正解は、両方大事、なんでしょうけど。ある場所では「一人が大事」だと言い、別の場所では「全体が大事」だと言い、コロッと発想を切り替えられないという感じですかね。)
コロナ禍では、一人の重みが大暴落しています。
もしかしたら、第二次世界大戦中の国民感情はこんな感じだったんでしょうか。
お国のために犠牲になったのだから、しょうがないとあきらめるしかない……。
なんて理不尽なんでしょう。
そう考えると、新型コロナウイルスは、新しい時代の戦争なのかもしれません。
社会全体として、ワクチンを接種することの重要性は理解できます。
だからといって亡くなった方の存在を隠してしまうのは、ちょっと違うのではないかと思うのです。
(まぁ、国の賠償の問題が絡んでくるから、慎重になるのでしょうが。)
人が亡くなっていくのを、国はただ見ているのではなくて、何かできることをしていく必要があるように思います。
あくまでも素人考えですが……、ワクチン接種後、例えば、一週間以内に亡くなった方についてきちんと調査し、どんな特性をお持ちの方がお亡くなりになったのか、明らかにできないものでしょうか。
それを受けて、ワクチンも、個人の体質やリスクに合わせて、タイプA、タイプB……など複数を開発してもらうとか。
あるいは、こういう体質の人は、ワクチンを接種するのと同時に、この薬を服用することよいとか、何らかの合わせ技を駆使するとか……。
「そんな時間はなかった」「そんな手間はかけられない」などと反論されそうですが、単純に「因果関係不明」で済まさず、今からでも、死亡者を減らすためにできることを考えて行く必要があるのではないかと、思うんですよね。
(私が知らないだけで、「実はやってる」だといいんですが。)
などと、私が勝手に考えても世の中はまったく、何も変わりません。
誰のせいでもない、理不尽が続く……。
亡くなる方も増えていく……。
そして私も危ない……。
日本の子どもの自己肯定感とGIGAスクール構想
日本の子どもは自己肯定感が低い、これはもう、ずっと前から言われてきたことです。
でも、私はこれを聞くと、もやもやします。
なんか違うんじゃないかと、重要なことが抜けているんじゃないかと、疑ってきました(笑)。
最初に申し上げておきますと、もちろん、私はど素人の一般人です。
だけど、気になるんですよ。
今の大人たちはどうでしょう。
大人たちも自己肯定感が低いのかというと、そうではないと思うのです。
給料の話をするとき、私の周りで、「私のようなダメな人間が、現在、十分なお給料をもらっておりますよ」などと答える人は皆無です。
今までに会ったことがありません。
誰もが「もっともらっていいはずだ」と答えます。
みなさん、十分、自分を高く評価しています。
自分の仕事ぶりを肯定しています。
自己肯定感がそれなりに高い、ととらえることもできるんじゃないでしょうか。
確かに、子どもにアンケートをして、他の国の子どもの結果と比べると、「低い」ということになります。
でも、聞き方に少々問題があるような気がします。
ある国際調査で行った質問は、「自分をダメな人間だと思いますか」だそうです。
これに、「はい」と答えると自己肯定感が低いと評価されるのです。
ちょっと簡単すぎるような。
だって、小さな子どもにもちゃんとプライドがあって、恥をかくことを嫌いますよね。いつも自分はダメな人間だと、思ってるわけじゃないと思うのです。
そんなことを考えていたら、ある本で興味深い記述を見付けました。
「自己肯定感の低い子どもは、自己評価が高い」というデータがどこかの国にあるそうです。
要するに、自分はこんなことができるはずだという、理想が高いと。
でも、実際には思った通りにいかなくて、自信を失ってしまい、自己肯定感が低くなる……。
もしかして、日本の子どもが自己肯定感が低いといわれるのは、理想が高いからなんじゃないかと、思い至りました(あくまでも勝手に思っているだけです)。
そして、その原因は何だろうと考えたときに、大人が子どもに高い理想を押し付けているせいじゃないかと。
家庭では、子どもが小学生ぐらいまでは、保護者が「いい親」になろうと頑張り、保護者自身には「できないこと」まで子どもにさせようとします。「自分にはできなかったことを成し遂げてほしい、ちゃんとした大人になってほしい」という親心からの行動ですが、そのために保護者も子どもも大変です。期待に応えられる子どもはいいのですが、そうでない子どもは……。
学校では、「こうしなさい」「こうすべきである」ことだらけです。それは子どもが失敗しないように、「良い子ども」にするために、先生たちが良かれと思ってしてきたことなんですが、長年にわたってこの体制がつづいてきたせいで、ルールがあまりにもがっちりと強固になりすぎているような気がします。
長年続いてきたことなので、多くの子どもは、なぜそのルールを守る必要があるのかを考えることをしないで、ただ先生に言われた通りに行動しようとします。そして、ルールを守れる子どもは理想的な良い子で、失敗して、その通りにできないと、「ダメな人間」が生まれてしまいます。
子どもがもっと成長したい、上をめざしたいと願うのは当然のことでしょう。
だとしたら、高く硬くなりすぎてしまった理想を、もっと現実的な、小さなステップに戻す必要があるのではないでしょうか。
一人一台の端末を使って、4月からGIGAスクール構想が動きだします。
この半年ぐらい、私はずっとそのテーマで取材を続けてきました。
これは大きなチャンスだと思うのです。
どんな授業をすれば正解なのか、端末をどのように使うと情報活用能力が高まるのか、それがまだ定まっていないからです。きっとこれから、一人一台の端末を巡っていろいろな問題が起きてくると思いますが、時間をかけて少しずつ、先生たちが試行錯誤を繰り返してなんらかの形をつくり上げて行くことになります。
ということは、学校の中で、先生たちは常に絶対に正しい存在ではなくなり、揺れる存在になります。端末の使い方など、子どもの方が詳しい、ということも起きて来るでしょうし、先生と子どもの関係が少々変化する可能性があります。
この機会に、高すぎる理想、強固なルールにしばられた時代は、もう終わりにしたいですね。
これからは先生も、子どもも、保護者も、みんなで失敗しながら、みんなで知恵を集めて、新しい時代の学校の在り方を、考えていく必要があると思うのです。
子どもの管理強化と教員の「働き方改革」
最近、学校をひんぱんに訪問する人たち(大学教授たち)からよく聞くのは、学校が管理的になっている、ということです。
数年前から、学校がスタンダードのようなものをつくって、授業中に机の上に置いていいものはこれ、無言給食、無言清掃……など、子どもたちに様々な場面で「こうしなさい」とモデルを示し、その通りにさせることを良しとする傾向が強くなっていました。これをすると集団の秩序を保つことができ、失敗がなくなります。これはこれで良い面もあるようで、賛否両論でした……。
それが、コロナ禍で、子どもたちにソーシャルディスタンスなどのルールを守らせなくてはいけないので、ますます強まっているようです。
でも、子どもへの管理が強まっている原因はそれだけではないことに気づきました。
教員の「働き方改革」です。
私は今月、学校の「働き方改革」の原稿を書いていたのです。「働き方改革」に熱心に取り組んでいる、Aという小学校の資料を見ていて気付いたのは、学校のスタンダードやルールをつくることで、子どもを管理しやすくし、それによって「働き方改革」につなげているのではないか、ということです。
細かいことまでルールを決めてしまって、みんな揃えたほうが、指導はやりやすいでしょう。子どもたちの声を聞いて、考えさせて……などということをするよりも、ずっと省力化れます。
厳しい先生が、子どもをがっちり管理すれば、子どもは怖いので静かにしますから、そのクラスは確かに静かになります。授業参観でも「静かでいいクラス」だと保護者は安心するでしょうし、校長先生も「〇組の子どもたちの態度は立派」だと褒めるでしょう。子どもは、いろいろ考えなくて済むし、大人が決めたルールを守っていれば褒められるし、失敗もなくなります。
これをすると、みんな丸く収まりますし、満足します。
そういう学校があるんじゃないでしょうか。
しかし、学校が子どもの管理を強める方向に進むのは、ちょっと違うのではないかと私は思うのです。
なぜかというと、2020年4月から全面実施となった新しい学習指導要領は、その真逆のことをめざしているからです。
この国の学校が今、育てようとしているのは、上司から言われたことだけをする素直で従順な人材ではないのです。予測困難な社会にもたくましく生き残っていけるような、思考力・判断力・表現力を身に付けて、状況の変化に応じて自分で考えて行動できる人材を育てようとしています。
先生方は、ただでさえ忙しかったのに、コロナ禍で大変なことはよくわかります。
ですが、学校でのいろいろなことが、子どもの管理を強める方向に進んでいった場合、将来、自分で考えず、上からの指示を待つだけの大人になってしまう可能性が高いのではないでしょうか。
学校が管理を強めることで、今の大人たちよりも、もっと、従順な大人が増えるかもしれません。
学校にはたくさんの子どもをがいますから、管理する場面も必要でしょうが、わいわいとにぎやかに、子どもが自分たちで考えて行動できる場面も必要です。
この国の学校はとかく、これがいい、となると、極端に針を振り切って、やりすぎてしまう傾向があります。うまくバランスをとっていただきたいなと、願っています。
小学校の教科担任制と「専門性の向上」への懸念
2022年度から小学校の高学年に教科担任制が導入される見込みとなりまして、今月はその取材をしていました。
教科担任制については、地域によって実施状況にばらつきがあります。
故郷の群馬県では、私が小学校のころですから、もう何十年も前から一部教科担任制を行っていました。
東京都などは、理科や音楽の専科教員がいて当たり前な感じになっています。
そういう地域に住んでいる人にとっては、何をいまさら、な感じがありますが、地域によっては今現在も、一人の担任が全教科を教えているそうです。
もともとこの施策は、「学校における働き方改革」に関連して出てきたものです。ですから、教員の負担を軽減することが重要です。
教科担任制の教員にとってのメリットとしては、①担当する教科が減るので、教材研究にかかる時間が減る、②空き時間ができるので、就業時間中に事務作業ができる、③特定の教科に集中できるので、教科指導の専門性が高まる、などが挙げられています。
一方、子どものメリットは、①授業の質が高くなるので、よくわかる、良い授業が受けられる、②教員にゆとりができるのでデータなどを分析する時間ができ、一人一人をよく見てもらえてきめ細かい指導が受けられる、などがあります。
私が気になるのは教員側のメリットの一つである「教科指導の専門性の向上」です。
今年10月、中教審初等中等教育分科会が「令和の日本型学校教育の構築をめざして」(中間まとめ)を公表しました。その中に、小学校高学年に教科担任制を導入する必要がある、と書いてありますが、何をすることが「専門性の向上」なのか、はっきり書かれていないのです。
ヒントになりそうなのは、「中学校以上のより抽象的な高度な学習を見通し、系統的な指導による中学校への円滑な接続を図ることが求められる」の部分です。系統的な指導をしなさい、ということです。たったこれだけです……。
先生たちはまじめな方が多いのです。このまま教科担任制を導入すると、どこまでも専門性を追究してしまう人がでてくるような気がします……。
例えば、中学校で教えていることを小学校でも触れなくては……、発展問題にもっとチャレンジしなければ……、私はこの教科のプロフェッショナルになろう、などと思って頑張ってしまう先生もいるかもしれません。
そもそも国が求めている「教科指導の専門性」とは何でしょうか。本当は、まずはそれを明らかにする必要があるように思います。
国が言わないなら県教委が、県教委が言わないなら市教委が、市教委が言わないなら校長先生が、「求めている専門性とはこういうもんだ」と、めざすもののゴールを先生たちにしめしてほしいと思います。
その場合、地域によって、学校によって求める専門性が違ってもいいと思うのです。
例えば、学力の高い地域、学校であれば、高度なことを教えられるようになるのが専門性なのかもしれません。全く新しい教材を開発するのが専門性かもしれません。
逆に、学力の格差問題や、生徒指導上の課題を抱えているような地域でれば、下位層の子どもにもわかるように、徹底的にわかりやすく指導することが専門性なのかもしれません。
あるいは、子どもたちから多様な意見を出てくるような授業をすることが、専門性と解釈してもいいと思うのです。
細かいことをいえば、教科によっても、求められる専門性は違ってきてもいいと思うのです。
少なくとも、もう少しやることの範囲を絞る必要があるのではないでしょうか。
この国の教育施策を見ていると、ゴールを示さないことが多いように思います。
その理由は「例を示すと、それに縛られて取組みが限定されてしまうから」。
それも一理あります。現場でもっと発展させ、高めていってほしい、という発想です。
しかしですね、そんなことをいっていたら、働き方改革なんか永久にできないと思います。
先生たちの負担軽減を目的とするのであれば、ここまですればよい、というゴールを最初に決めて、やることを絞り込む必要があると思います。
子どもに端末1人1台が実現しても…これでいいの!?
新型コロナウイルスの感染拡大によって、オンラインで、学校と子どもがつながれるようにしておかないと、休校になったとき、全然学習が進まないと、誰もが思い知りましたよね。すでに、外出禁止になっても授業をオンラインで進めていた国はあるようですし、日本にだっできるはず、なんとかしなくては、とも思いました。
それには子どもに1人1台の端末がなくてはいけない、ということで、GIGAスクール構想が一気にスピードアップしまして、今年度中には、多くの学校で子どもに端末一人一台が実現するのではないかと言われています。
しかしですね、教育委員会はなかなか手ごわいですよ。
昨日、ある政令指定都市の小学校の校長先生とZoomでお話しする機会がありまして、様子を聞いてみたところ……、確かに子ども1人1台分の端末は、年度末までに学校に配備されるようですが、その端末は学校が管理し、子どもが家に持って帰れないそうです……。あくまでも学校で使うんだそうですよ。家に帰って使うことを想定していないんだとか……。
大きな政令指定都市でもそうなんですよ。
教育委員会の方には、きっと言い分があるのでしょう。家に持って帰らせたら、壊してしまうとか、紛失するとか、学校に持って来ないとか、個人情報の問題だとか、回線の問題とか……。自分で買えとか。
もう休校はさせない、というつもりなのかもしれませんが。
大金をかけてせっかく配備しても……。これでいいんでしょうかね……。
私はですね、子どもが毎日家に持って帰って、宿題を端末を使ってやって、学校の授業中でも、辞書みたいに気軽に使って…という具合に、もっと自由に使わせられないものかなぁと、思ってしまいますが。
3密と新学習指導要領
政府は、緊急事態宣言の解除基準を14日をめどに公表すると発表しました。
本当はもっと早く示してほしかったと、個人的には思います(一応、東京都民のご意見窓口のようなところに、連休前に、基準を示してほしいとメールを送ってみましたが、当然、スルーされました)。
でもまぁ、緊急事態宣言を出すこと自体が初めての経験なので、みんな手探りですからね。しょうがないといえば、しょうがないのでしょう。
「3密」は、非常にわかりやすいメッセージだと思います。
密閉・密集・密接を避けましょうと。
子どもから高齢者まで、わかりやすくて、覚えやすく、非常に効果的なキーワードだと思います。
しかし、自分で考え、行動したい人にとっては、これだけでは情報量が不足していたのではないでしょうか。
新学習指導要領の趣旨を考えますと……、自分で考えず、人から言われた通りに行動するだけの人材を育てたいわけではないはずです。
自分でこの状況に何をするべきなのかを考え、判断して行動できる人を育てようしています。
そう考えますと、みんなに受け入れられやすいキャッチフレーズだけでは不十分でしょう。
キャッチフレーズにプラスして、自分で考えて行動したい人に向けて、国はその根拠や判断基準なども示していく必要があるように思います。
具体的に何を目標にして自粛するのか、その指標は何か、それを知るからこそ、納得してきちんと自粛できると思うからです。
今回のことに限らず、新しい時代に向けて、国は情報を単純化しすぎず、正確な情報を公開し、国民が自ら判断できるようにしていく必要があるように思います。
先生方、もっと学校HPを活用してはどうでしょう。
緊急事態宣言が5月末まで延長されることになりましたので、多くの小中学校の休校も延長されます。そうすると、「うちの学校でもオンライン授業をしてほしい」という要望が、保護者から寄せられることになるでしょう。
でも、そんなに簡単にできるものではありません。その準備は進めていただくとして……。
その一方で、すぐにできることとして、もっと学校のHPを活用してはどうでしょうか。
業務連絡だけで、放置されている学校が多いようです。
HPで文科省の「子どもの学び支援サイト」を紹介したり、東京でしたら都教委が作成した「東京ベーシックドリル」などを紹介することは大事だとは思います。
それを保護者が見て、子どもにすすめて、どんどん学習できる子どもも中にはいるんでしょうけど。勉強って、大人がチェックしなかったら、まじめにやりませんよね。
それよりも、今、大事なのは、学校が子どもとつながることであり、子どもと保護者に「つながっている」という感覚を持ってもらうことではないでしょうか。
例えば、学校HPを使って、学年ごとに毎日子どもに呼びかけている学校もあります。
今日は2年生は、国語のこれをやってみましょう、とかね。
次の日は、社会のこれをやってみましょう、とかね。
教科に関係なく、クイズを出してもいいですよね。
それから、こんなものを見付けたら、写真を送ってください、とかね。
子どもの意見を受け付ける形にできるといいのではないかと思います。
そうするとまた、「HPを見てくれない、見られない保護者もいます…」的なご意見が出てくると思うのですが、学校がHPをどんどん動かさないから見ないんですよ。
HPから毎日、子ども向けに情報が発信されているとわかれば、見てくれる人はいるはずですよ。
まずはやってみることが大事ではないでしょうか。
最初は数が少なくても、それでも続けて行くのです。
見られない環境の方には、個別に対応して対策を考えることにして。
それから、学校内では「3年生だけがやるのはけしからん」など、そういう話になりがちですが、今は緊急事態です。
できる学年から始めてはどうでしょうか。